俳句添削道場(投句と批評)

イサクさんの添削最新の投稿順の1482ページ目

「鳥の巣で新たな命生まれ出る」の批評

回答者 イサク

添削した俳句: 鳥の巣で新たな命生まれ出る

こんばんは。はじめまして。よろしくお願いします。
すでに数句、投句してらっしゃいますし、それぞれの句で他の方のコメントも頂いているようですね

私のコメントは、やや厳しめに見える意見かもしれません。

◆この句は、季語「鳥の巣」について、十七音かけて説明しているタイプの句です。
 初心者さんがよくやってしまう形ですね。このサイトでもしばしばみる形です。

 季語「鳥の巣」はただ「巣」という意味ではなく【鳥が卵を抱き、雛を育てる場所】という意味を含みます。だから春の季語になっています。
 言い換えれば、季語「鳥の巣」と出すだけで、「鳥の卵」や「雛」の映像は読者が頭の中に思い浮かべます。(これを「俳句の鑑賞」と言うことがあります)
 なので、この句は季語「鳥の巣」を全部で17音使って一部だけ説明しているのですが、季語「鳥の巣」4音に意味が全て含まれているので、残り13音が無駄になっていることになります。

季語の持つ意味については、日本語としての意味は当然のことながら、歳時記で調べることをお勧めします。
歳時記について、まずは本になっている歳時記(電子辞書でもいいです)を確認することをお勧めします。
(どうしても入手が難しいならネットで調べてもよいですが、ネットは嘘情報も頻繁に散見されますし、AIも嘘や間違った情報を出すことが多いので、あまりお勧めしていません)

推敲するとして、
「鳥の巣(助詞)○○○○○○○○○○○○」という形で、助詞含めて13音が全く別のことを表現できます。
たとえば、鳥の巣の周囲のことを描いてみる句を出します。季語「鳥の巣」を使うことで、鳥の巣で親鳥や雛の出す音や鳴き声が聞こえてくるでしょうか?
完成度は全く高くない句ですが、ご参考まで

・鳥の巣が松の大樹を騒がせて

点数: 1

「ガラス戸に犯人の顔花の雨」の批評

回答者 イサク

添削した俳句: ガラス戸に犯人の顔花の雨

こんばんは。

初読では「なんで犯人だってわかるの?」とふっと立ち止まりました。
が、指名手配犯などの顔を覚えていたのだろうなど思いついた途端、強烈に怖い句に見えました。ガラス戸の向こうに犯人を見てしまったことになります。
これが普通の読みでしょうかね?

なぜ「ガラス戸」か、という深読みをすれば「そこに映っている自分の顔」を「犯人の顔」と比喩(あるいは断定)しているともとれます。

1.比喩の読みの場合、何か罪悪感を持って自分の顔を見てしまったということになります。たとえば「犯罪にならない範囲で」他人を傷つけてしまったことを悔いているとか、自分の顔を見た瞬間に自分のしでかしたことに気づいたとか、自分が思ったよりも悪い顔をしていたとか、ですね。

2.断定の場合、自分が犯人であると自覚しつつ自分の顔を見たという感慨なのか、あるいは自分が犯人であることを忘れていて、ふと自分の顔を街角で見てしまったときに思い出したのか?ということは記憶喪失だったのか?

そこから発展して、さらにストーリーを妄想していますが、これらの妄想に季語「花の雨」を取り合わせるわけです。

どの妄想をしても、季語「花の雨」では弱いかなあ?と感じるところがあります。
なぜこの句(詩)には「花の雨」という春の季語が必要なのか?
その答えを読者として導き出すところまでたどり着けていません。
むしろ季語ではない上五中七に季節感・具体性がない上に、インパクトが強すぎるのが問題な気もしますが、
季語が変わるとどうでしょうね?冬の季語が合いそうな気はしますが近すぎるかな?

・ガラス戸に犯人の顔冬館
・ガラス戸に犯人の顔雪の宿
・蚊帳吊りてガラス戸に犯人の顔
・梅雨暗しガラス戸に犯人の顔

点数: 2

「入院の爺見舞う爺春惜しむ」の批評

回答者 イサク

添削した俳句: 入院の爺見舞う爺春惜しむ

こんばんは。こちらコメントしたつもりになっていて忘れていたようです。

なお節健在ですね!楽しい句!

以上です。

点数: 1

「今日もまたエイプリルフール春の雲」の批評

回答者 イサク

添削した俳句: 今日もまたエイプリルフール春の雲

こんばんは。
慈雨様とのやりとりを見ていて、横から失礼します。

私個人は、御句は「意図した季重なり」の句として解釈しましたし、それがダメだとは思っていません。
でも、気になるかどうかと言えば、「エイプリルフール春の雲」と続くために読み取りにくく、気になる人が多数発生するのは理解できる、という意見です。

で、表現の話です。
まず、俳句で100%伝わるように、というのはかなり単純(シンプル)な句か、幼稚な句、みたいなことになると思います。その上で

季重なりを比喩と100%理解させたいなら、たとえば直喩にする
・今日もまた四月馬鹿めき春の雲

「嘘をつく」と100%わからせたいなら、「嘘」と出す
・今日もまた嘘を続けて春の雲

「自分に嘘をつく」と100%わからせたいなら、そのように書く
・今日もまた自分に嘘を春の雲

ここまで書いてもまだ「病気の自分に嘘を」と100%わからせることはできないと思います。
でも100%読者に伝えることを優先するなら、ほぼ散文になってしまいますし、季語も不要ですよね。
・今日もまた病気の自分に嘘をつく

そうではなく、めい様は「俳句」というルールに従って「詩」にすることを選ぶんでいます。
ならば、その「詩」にするのを優先して選べばいいのだと思います。
「俳句という詩」として成立しているのであれば、季重なりは許容されるべきだと私は思ってます。
ただし「許容できる季重なりかどうか」というのは、最終的には読者に託されるところなので、作者としての努力はそこにかかってくるのかなあ?

私なら、比喩の「エイプリルフール」の八音を優先するよりも、ある程度誤読をしないように読者に寄り添うところです。が、作者によってそこの優先度は変わるべき。なので、めい様の思う最終形を探してみてください。

点数: 1

「風光る匙大盛りの龍角散」の批評

回答者 イサク

添削した俳句: 風光る匙大盛りの龍角散

こんばんは。

季語」+「季語と関係ないことば」の取り合わせを考えるときは、「季語と関係ないことば」から先に決めて、あとで季語を合わせるのが初心者さんにはお勧めです。(というか、方法論としては鉄則レベルでお考え下さってもいいです)

「匙大盛りの龍角散」まずこちらありきで考えます。
これに対して、どんな気持ちですか?
楽しいですか?悲しいですか?
楽しいなら明るく楽しく感じる季語、悲しいなら暗く寂しく感じる季語。

で、明るい気持ちとして
「匙大盛りの龍角散」に合う明るい季語を探すわけですね。

で、「風光る」はたしかに明るい季語なのですが、
龍角散が風でとんでっちゃいませんか?

季語を選ぶときのコツのひとつとして、季語と季語以外の部分が、同時にその場で見える、感じられる、存在できるかどうか、というのがあります。
でないと俳句の光景が成立せず、ちぐはぐな句になってしまうので。

「匙大盛りの龍角散」は家の中の光景だと思います。
なので「屋内でも成立する季語」が望ましいですね。
(○○の雨、とか、○○の月、とか、屋外でも窓から見える聞こえるものはセーフ、などの判断はあります)

例としていくつかあげてみます。

・春雨や匙大盛りの龍角散
・啓蟄や匙大盛りの龍角散
・恋猫や匙大盛りの龍角散
・燕来て匙大盛りの龍角散
・進級や匙大盛りの龍角散

点数: 1

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