「ガラス戸に犯人の顔花の雨」の批評
こんばんは。
初読では「なんで犯人だってわかるの?」とふっと立ち止まりました。
が、指名手配犯などの顔を覚えていたのだろうなど思いついた途端、強烈に怖い句に見えました。ガラス戸の向こうに犯人を見てしまったことになります。
これが普通の読みでしょうかね?
なぜ「ガラス戸」か、という深読みをすれば「そこに映っている自分の顔」を「犯人の顔」と比喩(あるいは断定)しているともとれます。
1.比喩の読みの場合、何か罪悪感を持って自分の顔を見てしまったということになります。たとえば「犯罪にならない範囲で」他人を傷つけてしまったことを悔いているとか、自分の顔を見た瞬間に自分のしでかしたことに気づいたとか、自分が思ったよりも悪い顔をしていたとか、ですね。
2.断定の場合、自分が犯人であると自覚しつつ自分の顔を見たという感慨なのか、あるいは自分が犯人であることを忘れていて、ふと自分の顔を街角で見てしまったときに思い出したのか?ということは記憶喪失だったのか?
そこから発展して、さらにストーリーを妄想していますが、これらの妄想に季語
「花の雨」を取り合わせるわけです。
どの妄想をしても、季語「花の雨」では弱いかなあ?と感じるところがあります。
なぜこの句(詩)には「花の雨」という春の季語が必要なのか?
その答えを読者として導き出すところまでたどり着けていません。
むしろ季語ではない上五中七に季節感・具体性がない上に、インパクトが強すぎるのが問題な気もしますが、
季語が変わるとどうでしょうね?冬の季語が合いそうな気はしますが近すぎるかな?
・ガラス戸に犯人の顔冬館
・ガラス戸に犯人の顔雪の宿
・蚊帳吊りてガラス戸に犯人の顔
・梅雨暗しガラス戸に犯人の顔
添削のお礼として、イサクさんの俳句の感想を書いてください >>
こんにちは。前句「入院の爺見舞う爺春惜しむ」にはたくさんのコメントおよびご提案句有難うございました!色々な見方があるものだと思いました。入院しているのが私、いや入院している友を見舞うのが私、いや、どちらでもない、そんな光景を見ている第三者が私…どれも正解です!有難うございます。
本句、先日思いついたのですが、これって怖いですか?めちゃ怖い?
いったい、どんな光景を想像なさいますか?私が思ったのと同じことを想像なさる方はいらっしゃるでしょうか?
よろしくお願いします!