「晩鐘の幽かに震う冬紅葉」の批評
「山本山俳句
」について、個人的な補足を。
私は勝手に「コンバインド(=結合)方式の俳句」と呼んでいますが、「山本山俳句」も、使いようによっては非常に役に立つ技法だと思います。例えば、
大拍手空舞うコスモスのブーケ(東国原英夫)
私が初めてこの句に出会った時、「「空舞うコスモスのブーケ」なんて、何と陳腐で凡庸な表現なんだろう。東国原さんらしくもない、こりゃボツだな」と思いながら見ていました。
しかし、直後の夏井先生
の解説で、この句は「大拍手空舞う」と「空舞うコスモスのブーケ」が結合した形の句になっていると言われ、ハッとした覚えがあります。
この技法の良い所は、「A:大拍手」「B:空舞う」「C:コスモスのブーケ」とすると、
1.自然な形で「A+B」と「B+C」の両方の景を描ける
2.「A+B」から「B+C」の景へ、シームレスに場面を移行できる
3.それにより、「A」と「C」を自然にオーバーラップさせる事ができる
4.場合によっては、意外性のある「A」と「C」を自然に結び付けてしまえる程の力を持つ
という所です。「大拍手」と「コスモスのブーケ」が一体化して見えませんか?
4については、例えば、
暮れていく秋の飴色セロテープ(梅沢富美男)
「暮れていく」と「セロテープ」を表現として直にくっつけるのは少し無理がありますが、「暮れていく秋の飴色」と「秋の飴色セロテープ」の両方が景として自然に存在しているので、「暮れていく+セロテープ→ひょっとしたら、セロテープが飴色なのは、秋の色を映しているのもあるが、セロテープ自身が寿命を迎えつつあるのではないか」という読みも自然に出てきます。
比較として、
秋は飴色暮れていくセロテープ
とすると、「暮れていくセロテープ」の部分に違和感(比喩がやや強引に感じる)が出てきます。
……さて、今回の
晩鐘の幽かに震う冬紅葉
ですが、イサクさんが仰ったように、「晩鐘+幽かに震う」の所に違和感が出ていて、このままではAとCは上手くくっついてくれません。Bの動詞が繊細過ぎる(=汎用性が低く、守備範囲が狭い)上に、Aの「晩鐘」に助詞がくっついているので話がややこしくなっています。
「A+B/C」「A/B+C」と分けてしまえばこの問題は簡単に回避できますが、もしもくっつけるなら、
寒村の暮鐘震える冬紅葉
などはどうでしょう。
「暮鐘(ぼしょう)」は「晩鐘」とほぼ同義語。「寒村の暮鐘+震える」は「鐘が鳴って震えている」「鐘が寒さで震えている(擬人法)」、「震える+冬紅葉」は「鐘の音(空気の振動)や冬の風を受けて震えている」「冬紅葉が寒くて震えている(擬人法)」などの読みが無理なく生まれます。
また、「寒村=過疎地」という読みをすれば、AとCをくっつけて「この冬紅葉は、そう遠くないうちに散るだろう。この暮鐘も、いつまで鳴らす事ができるか分からない」「いつまで鳴らせるか分からない鐘だけど、冬になって彩りを強める冬紅葉のように、今は精一杯この鐘を鳴らす」などという読みも生まれるかもしれません。
最後に……山本山方式の句を成功させる為の、私なりのまとめを。
1.AとB、及びBとCの間の助詞は省き、「名詞+動詞+名詞」の形で直にくっ付ける(→助詞があると、修飾・被修飾の問題が出てきてややこしいため)
2.「A+B」と「B+C」のそれぞれの景や表現に無理がない
3.「A+B」と「B+C」の景が共存している事にも違和感が無い(=読み手が読んだ時、その場の全体の状況がすぐに理解できる)
4.AとCは、意外性のある組み合わせだと面白い
この辺りを意識してみると良いと思います。
……長々と、失礼しました。