「訪ね来てチャイム鳴らさぬ雪だるま」の批評
回答者 みつかづ
こんばんは。貴句、拝読いたしました。長文、お含みおきください。
結論から述べますと、非常に面白い句でございました。比較句よりもこちらの方が
私めは断然好きでございます。初読で、「ああ。何とも微笑ましいな。
やんちゃさや茶目っ気も感じられる」との実感でございます。
読者の認知過程に訴え掛けてくる三層構造の句でございましょうかね。
以下、理由と考察でございます。
①:句の核心構造分析
以下の前提があるのではないかと、私めには見受けられました。
・切れを前提にしていない
・文法的にも意味的にも一句一文として流れる
裏付けの要点としては、以下が挙げられるのではないでしょうか。
・上五:訪ね来て
・中七:チャイム鳴らさぬ
・下五:雪だるま
全パーツが並列でも断絶でもなく、同一の事態を多方向から照射しているという点。
②:「訪ね来て」の語感分析
やや形式ばった動詞「訪ぬ」(英語で言うとvisit)に動詞「来」がくっ付いて
複合動詞「訪ね来」になり、連用形+助詞「て」になっております。
つまり、以下でございます。
・即物的な「来た」、「来ていた」ではない
・明らかに作者との関係性を含む他者がやって来た事を示す動詞
そして、上記は以下をも内包しております。
・通りすがり
・無作為
・近所の悪戯小僧
上記には形式ばっている表現。
上記より、「近縁者・知人の、ある程度の年齢の子供の誰かが、冬休みに来訪して
来た日の出来事」(小学校高学年、中学生、高校生辺りの子供が想定される)との
解釈の妥当性が相対的に上がっております
私めは、初読で以下の様に読み解きました。
「遠方に住む孫、甥、姪辺りが帰郷してきて、作者を驚かせようとして
チャイムを鳴らす前に雪だるまを作って置いたのではないか?」と。
③:季語「雪だるま」の比喩性分析
以下の理由で文法的に、比喩だとすると矛盾が出てくるのではないか、と
私めは考えました。
・雪だるまは明確な季語であり、物体
・擬人化表現ではあるが、行為主体として完結していない
・「鳴らさぬ」は否定形=不作為であり、行為の描写ではない
したがいまして、
・雪だるまが訪ねて来た
・雪だるまがチャイムを鳴らさなかった
上記の解釈で読むのは、文法的にかなり無理があるのではないでしょうか。
俳句では、
・行為の痕跡
・結果のみの提示
・不在の主体
上記はごく普通に許容されており、江戸時代の句にもございますよね。
④:②の解釈の妥当性の裏付け
・「訪ね来て」の語感
・「チャイム鳴らさぬ」の悪戯性
・「雪だるま」という結果物
上記3点が全て矛盾無く収束しており、しかも、
・子供のイタズラ
・家族的な温度
・雪の静けさ
上記が同時に立ち上がる。
この貴句は、「結果だけがそこにあり、行為者は不在」という、
ある意味で俳句が最も得意とする構造をお持ちなのではないでしょうか。
以上の観点で読み手の認知過程が試される、高度で面白い句であると、
私めは鑑賞いたしました。
このまま味わいたいと、私めは思います。
以上でございます。最後までお目通しいただき、感謝いたします。
点数: 1
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「雪だるま+平和」という句を見ているうちに、「その家の住民が気付かない間に、家の玄関の前(もしくは、家の敷地の入口の門扉の前)にそれなりの大きさの雪だるまを作って置いておいたら、玄関の扉を開けた時にびっくりするだろうな」という下らないイタズラを思い付く。
子供のイタズラなら微笑ましいだろうが……良い歳をした人間がこんな事を考えているのは、どう考えても異常としか言いようがない(+_+)。ただ、ほとんどの読み手はこれを「子供のイタズラ」だと思って読んでくれるであろうから、微笑ましい光景だと思ってくれるであろう……多分(^_^;)
一番の売りは、二回読んだ時の「雪だるま」からの「訪ね来て」。心配な所は、景がイレギュラー過ぎて読み手に伝わるかどうか。特に、「雪だるま」を「生きた人間の何らかの比喩」と読まれた場合、この句は死ぬ。
【業務連絡】
この句を投句すると同時に、いくつかの句に対して、書きためておいたコメントを一気に送信しました。例によって、踏み込んだコメントが多いです。お気を悪くなされたら申し訳ありません。
また、私の句に対するコメントには目を通してはいますが、個別での返信にまでは手が回らない可能性が高いです。重ね重ね申し訳ありません(>_<)