「目に眩し青もみじの清々しさ」の批評
回答者 みつかづ
添削した俳句: 目に眩し青もみじの清々しさ
初めまして。こんばんは。貴句、拝読しました。
めいさんが指摘なさった季重なりについて、更に深掘り致します。
眩し:三春(春の初め頃から終わり頃まで)
清々し:初夏(夏の初め頃)
ですが、この2つは季語の中でも感情的な意味を含んでいますので、例えば晴れている日の朝だとしますと、年間を通じて眩しかったり、清々しかったりします。
ですので、このタイプの季重なり(その中でも四季が違うものを特に「季違い」と分類する事もあります)は「作者は一体どちらの季節感でお詠みだろう?」と読者は迷う訳です。
又、季語を集めた本を「歳時記」と言いますが、「青もみじ」は載っていないと思われますが、「青楓」は初夏の季語として載せられています。
もみじ、楓は少し意味合いは変わるものの、大意は「カエデ科の樹木」を指す言葉です。
となりますと、「青もみじ」。この表現で季語になるのか微妙な所で、読者は「きっと初夏だろう」と想像できますが、作者コメントを見るともう1度混乱に陥ります。
と申しますのは、「いつものお散歩道の青もみじが新緑で目に眩しくて、空気が清々しく感じた様を読みたかったです。」
「この句を作者が今日(本日、2024年4月11日木曜日現在)詠まれたのだとすると季節は晩春(春の終わり頃)だけど、「新緑」は初夏の季語として歳時記に載っている。作者は想像でお詠みなのか、それとも今日見られた光景をお詠みなのか(三春の季語があるので)、一体どう受け取れば良いのだろう? 又、そのまま「青紅葉」だとすると、夏の初めとは限らない。一体夏のいつ頃だろうか?」となる訳です。
季重なり・季違いが必ずしも悪い訳ではありませんが、「高度な技法なので失敗し易い」という事は押さえていただければと思います。
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