再来失礼いたします。長文、お含みおきください。
拙句「雑踏に色幾つある日傘かも」にコメント、ありがとうございます。
①句の構造について
句意に都会と書いてしまいましたが、実は都会である必要性は無く、読者が
追体験する場合に個々が思い描く雑踏でいいですよ、との含みです。
上五の「雑踏に」について。
人混みは状態。
つまり、「人々で混雑している様子」に軸足が乗っているニュアンスになります。
雑踏は場所。
つまり、「人々で混雑している場所」に軸足が乗っているニュアンスになります。
「雑踏警備」というお仕事がありますが、それは場所を警備しているのであって、
状態を警備している訳ではないのです。
実際、警備員として雑踏警備も担当させていただいておりました。
中七の「色幾つある」について。
頓さんのご提案「数多の色の」、あらちゃんさんのご提案「色数多なる」に
しなかった理由は、「色幾つある?」と読者が変形する解釈を可能にして、私の
内面の揺らぎを表現する為のフレーズとして機能させる意図を持つ表現で、
「確定的に書きたくなかった」という事です。
確定的なフレーズにしてしまうと、私の「内面の揺らぎ」が表現できませんので。
終助詞の詠嘆を「かも」で弱めたのも同じ理由です。
「かなだと詠嘆として強過ぎるかな」という、微差かもしれませんが、
俳句
は17音という字数制限がきびしく、句の繊細な部分をどの様に表現するか?
との私なりの思考錯誤です。
②私の休止について
私の趣味は頭を酷使するものばかりです。
「気分転換の為にしているのに、疾患による思考抑制で頭痛に
悩まされている」状態なのです、今。
その状態が収まれば、また顔を出せる様になると思います。
③句の読み解き・読解と添削
、改作(改悪も在り得る)の違いについて
句の読み解きの際は、私はですけども、自身の先入観を捨てる為に、
少しでも自信が無いなという所は必ず辞典で単語の意味を確認して、
私の感情を一旦脇に置いて句の字面を字義通りに読み解き入れて解釈して、
そこから句から受け取る私自身の感情という思考の道を辿り、
そして作者コメントと句の字面を比較して、
「句で作者が表現なさりたい事と、作者コメントの内容が意味的に乖離がある。
作者コメントを拝見すると、本当はこうお詠みになりたかったのではないか?」と
私なりに推察を入れて添削案を考えている訳です。
そうしないと改作になってしまいますので。
でも、改作は作者の持ち味をブチ壊してしまい、
句から作者の個性を消す事になってしまいます。それは悪いとの判断です。
(『俳句添削道場』は往々にして改作が横行しておりますが、
「それは本来のこのサイトの在り方でしょうか?」というのが、
私の率直な疑問です)
ですので語の意味、文法、句の意味的な型(意味の切れ目)、季語
の働きなど、
「句の構造の理解」から本来は読み解きを始めるべきではないか?
というのが私の考えです。
イサクさんには申し訳ありませんが、書きたくないですが
敢えて書かせていただきます。
解説の部分は確かに上手い方ですが、これは良くない例です。
拙句「炎天の渋滞死せる冷房よ」
https://weblike-tennsaku.ssl-lolipop.jp/haiku/corrections/view/31210
添削提案
・冷房の効かぬや都心環状線
・エアコンの死よ炎天の社用車よ
・車は進まず冷房は働かず
全て改作になっております。
「面白くないとお思いなのは構いませんが、その添削提案は全て却下いたします。
この拙句は、自分の気持ちを唯物視した「感情の写生句」です。ですので、道路が
何処か、社用車かどうか等は読者にとっては正直、世界一どうでもいい事柄に
なります(私は個人事業主でしたので社用車ではなかった)。
イサクさんは説明的と仰いますけど、それは句の核心が確実に読者に伝わっている
場合に限って成立する技術論ですよ? 拙句はそうなっておりせん。
句の核“嘆きの層構造”まで辿り着いてのご意見でしょうか?
また、炎天も冷房もどちらも季語だと存じて使っております。この句の季重なりは
季語の主従関係と季語同士の相乗効果のダブルの意味がありますが、
そこまで読み解いておいでしょうか?
夏井先生
のご意見を盲信されておられませんでしょうか?」となる訳です。
一方、独楽さんの添削提案は以下です。
・炎天の渋滞空調の息よ
私は一読で、「私の心理の変化(暑さ→壊れる→絶望)、時間の経過(句跨り)、
擬人化の語り口(死んだ冷房)。
これらを全て読み取った上で、「息よ」との表現に落とし込んでいらっしゃる。
語を削ぎ落としつつ、「私の感情」の量は減っても質は維持している」と
判断できる訳です。
これこそが、添削です。
頓さんの句にも持ち味があり、「頓さんワールド」がある訳ですから
それを壊すのは良くないと、私は考えております。
蛇足ながら私の「みつかづワールド」ですが、俳句に西洋哲学の思考法である
「唯物弁証法」を用いて命題(テーゼ)と反命題(アンチテーゼ)との
対立・矛盾から新しい理解・結論・真理(ジンテーゼ)を導き出し、そこに
心理学的な要素も追加して、読者に考えさせるという作句スタイルです。
なので難しく見えてしまいますが、丁寧に読み解いていけば、
句意に辿り着けなかったとしても考える事、
読み解こうとする事自体に意味が有りますよ、という事です。
本線に戻ります。
句の解釈は各々自由ですが、自由にも責任が伴います。人様の句を添削するとは、
他者様の句を触る訳ですよね。
句意をほぼ正確に理解していないのに迂闊に触ろうとすると、
改作や改悪にならざるを得なくなります。
頓さんは「初学者です」とご謙遜なさっておいでですが、私よりも点数はずっと
上位ですから、「そろそろ周りはあなたを初学とは見なくなっておりますよ」という
客観的段階に達しており、「句の構造的理解」が必要な段階かと思われます。
そして、以前別の方に「矜持」、「自尊心」のお話なさっておられましたよね。
それら自体は大切になさっていただきたいのです。それが頓さんの持ち味ですので。
ですが、「それは他者も同じですよ」との視座が欲しい訳です。
そして、俳句は詩歌の文学、芸術ですので、文字に書き起こす際、読解の際は
観念・感情ありきではなく文学的論理(文法、俳句の意味的な型、季語の意味と
働きを総合的な構造として捉える思考)ありきなのです、
実は。
何故か?
日本語を使っている以上、単語の意味を正しく理解していないと
詠みも読み解きも上手くできる訳無いからです。
酷暑の候です。どうぞご自愛ください。
以上です。ご覧いただきありがとうございました。