「山蝶や乗り間違へりこの電車」の批評
拙句「大阪の春の曙今一度」へのコメント、ありがとうございます。
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元横綱、曙さん。54歳にして亡くなられたのは本当に残念です。
拙句の上五「大阪の」。
1993年3月の春場所(大阪が開催地)で、外国人力士初の横綱として、本場所の土俵へ上がられましたので、「大阪の」という始まりにしてみました。
さて、貴句への私の最初のコメントですが、書き方が悪く、正確にお伝えできなかったのは私の力不足です。申し訳ございませんでした。
又、ケントさんの「「生きとし生けるもの」には、ちゃんとした「意志」がある」、「「風任せ」に生きているのではない」のコメントには、寧ろ私も全く同感です。
例えば、炎が燃え盛っている様な所はおろか、マッチやライターの小さな火、線香でさえ昆虫達や動物達は近寄りませんし、火の手が上がれば逃げ出します。意志や意思(感情)が無ければ「逃げる」という行為できませんからね。
「電車に乗って目的地へ向かう蝶が居るなら持ってきてください」の本意は、「山蝶の思いとして、閉鎖空間である電車(山蝶の立場で見ると、「虫かごがとても大きくなった様な、閉鎖的であり移動する不気味な物体」)という移動手段そのものを、そもそも山蝶自身の思いで選ばない」という意味でして、例えば「下五が「この風は」なら全く違和感ありませんよ」という事です。
と申しますのは、山蝶は我々とは違って羽があり、行きたい方向(花の蜜や寝場所などの目的地)へ自力で飛んだり舞ったりして空中を移動できますので、(優しい)追い風ならその助けになりますが、高さやタイミングによって風が吹いている方向や強さが変わりますので、山蝶の立場で見た時に、例えば「あ、乗る風を間違えた! これは向かい風なので行きたい所に行きにくい!(又は「行く事ができない!」)」との山蝶の思いが、下五の「この電車」という表現では読者に伝わらないのではないか? あるいは「行きたい所(例えば桜)はすぐ近くにあるのに、いくら羽ばたいても近付いている感じがしない(無色透明なドアやガラス窓に阻まれて)。これは一体何が起きているんだ?」という山蝶の思いが読者に伝わらないのではないか?というのが私の考えた所です。
以上、長々と失礼致しました。
今後とも、よろしくお願い致します。