「秋分炎ゆアフリカの花咲く門に」の批評
おはようございます。
私のコメントに、煩わしい、うるさいと感じる表現がありそうです。うざいと思ったらスルーしてもらっても大丈夫です。
他の方から出ていないコメントを中心に。
◆「アフリカの花」
実物の花ではなく「何かの比喩なのか?」という思いが残りました。
実物の花だとしたら、なぜ花の名を出さず「アフリカの花」という遠回しな言い回しにしたのか?という狙いが掴めず、別の何かを「アフリカの花咲く」と比喩したのではないか?と疑った、というのが、私の心の動きの推察です。
◆「秋分炎ゆ」
「秋暑し」など、分解すれば季重なりですがひとつの季語として認められている季語は多数存在します(cf.「秋時雨」「秋袷」「秋の蠅」「秋の風鈴」など)。また、私の句に対するアプローチとしては、狙って使った季重なりは否定しません。
大切なのは「季重なりに効果があるかどうか」です。
「二十四節気を用いたこと」と「炎ゆという夏の中でも特に暑い日中の表現」を重ねたことの意図と効果、はどうでしょう?1日経過して、作者本人の目にはどのように映っているのでしょうか?
◆「秋分」「炎ゆ」「アフリカの花咲く」この句の主となる三つの単語のどこにも確たる映像がなく、心理も掴めません。「門に」が唯一の映像になりそうな単語ですが、この句で「門」が主役になってはいけないはずです。
◆御句やコメントには、「言いたいことを出すぞ!」という作為を強く感じます。
私の初学の頃に学んだ中に
「俳句に自分(自己の主張)が出ているうちは失敗しやすい」
という言葉があります。複数名の俳人が似たようなことを言っていたり、私も実体験として幾度か痛感してきた言葉です。これは「自分を滅せよ」という意味ではありません。
俳句(有季定型俳句)は「季語に託して受け取り手に委ねる」という形式の「短文【詩】」です。これをどう生かすか、ということです。
別の言い方をすれば「主張をしたい」が前面にある俳句は詩が出にくく、「わざわざ俳句の有季定型という制限のきつい形式を選ばなくてもいいのでは?」「皮肉ならば川柳でいいのでは?」「詩を前面に出さないなら、定型でなくても論文や狂歌でもいいのでは?」など、「なぜ俳句を選んだのか?」となりがちです。
さらに逆を言えば、俳句の形式で詩が成立して受け取り手を感動させる(笑わせたり悲しませたリを含む)ことができるのであれば、多少主張があろうとも問題はない、とも私は考えています。
というところで、
句とコメントから察するに、季語を使って季語を否定している、というのが「有季定型俳句」としては最も難易度が高いところだと思います。鈴蘭様が最終的に妥協できる箇所がわからないので提案句を置くのも難しいところ。
次回作を楽しみにお待ちしております。