「剥製の鷲も見つむる秋の空」の批評
回答者 なお
こんにちは。げばげば様、いつもお世話になってます。
げばさんはとてもこまめに皆さんの句にコメントをお書きになるから、ご自身の句にもすぐにコメントが寄せられますね。
なんだか出遅れ感がありますが、げばさんの句に何も反応しないのはつまらないので、私も遅ればせながらレスします。他の方々のコメントは当然目を通して参考にさせていただいておりますが、それらに引っ張られないようにしたいと思います。
御句、まず初読では、この剥製は、ご自宅の窓辺に飾ってあるのだと思いました。かつて飛び回った大空を懐かしく思っているのだろうと。「も」は、作者も秋の空を見つめている。その傍らで剥製も、という感じですね、違和感はありません。
剥製の擬人化も違和感はありません。私が違和感を感じる擬人化は、まったく生き物の気配がない場合の擬人化です。
むしろ違和感は、「見つむる」でしょうか。未だかつて、「見つめる」ではダメなのかなぁ、と言っているレベルです。
あと、鷲の剥製は、獲物を狙うポーズで作られているだろうと思うと、空を見つめるのは難しいかも、とは思いました。
そしてご自身のコメントを見て、「へえ〜」と。供養のお焚き上げに持っていくのですか。その車の中で、あるいは寺社の焚き上げ場にひっくり返ったような体勢で積まれてちょうど仰向けになり、空を見つめて、「あの空を飛び回ったオレも、もうすぐ焼かれてしまうのか…」と物思いにふけっているわけですね?それは想像できませんでした。
それであれば、俳句にそういう場面であることを入れられませんかね?先日どなたかが「牛の尻」とかいう俳句をご紹介くださいましたが、あのような感じで出来たらいいですけど。
私の提案句はそこまで行っていません。
・焼かれゆく鷲の剥製秋の空
・焚き上げし剥製の鷲秋の空
しかし剥製とか鹿の首とか亀の甲羅とかは始末に困りますねー。お察しします。
点数: 1
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先日、祖父の家の片付けをしていて、鷲の剥製の供養寺に行ってきました。人形や剥製が一杯あつまってきていて、お焚き上げです。
剥製の眼にも映るや秋の空
と描写寄りが最初でしたが。
「も」はいかに。
みなさんご意見よろしくお願いします。