「追憶の声のやうなる秋風鈴」の批評
おかえさきさんこんばんは。
曼珠沙華の句へのコメントありがとうございました。
ご心配かけてすみません。戻るべきかどうか1週間ほど迷ってました。
「かな」の使い方についてですね。私の知識と解釈のなかで解説してみます。
そもそも、俳句
の切れ字の「かな」は、「大丈夫かな?」とか「この店開いてるかな?」みたいな日常生活でよく使う疑問形の「かな」とは違います。
疑問形の「かな」と切れ字の「かな」はどちらも「か」と「な」という2つの助詞がくっついて成り立っています。そのうちの「な」の方はどちらも同じく詠嘆の終助詞ですが「か」は別物です。
疑問形の「かな」の「か」は疑問の終助詞です。例としては「大丈夫か?」「いい方法はないか?」といった感じです。
切れ字の「かな」の「か」は詠嘆の終助詞です。例としては「やっと終わったか」「もうこんな時間か」といった感じです。
つまり切れ字の「かな」は詠嘆の終助詞が2つくっついた形というわけです。
前置きがだいぶ長くなりましたが、切れ字の「かな」に対する私の解釈は、最後の名詞を強調しながら句全体を優しく受け止めるような感じです。
中七で一旦切れて、下五に「かな」が来ると、句が分断された印象が強くなり、句全体のまとまりが無くなってしまうような気がします。
また、夏井先生
によると「かな」は「私はこう思いましたが、皆さんはどうですか?」と投げかけるニュアンスも持つらしいです。
私が以前詠んだ句を例に出しますが「生意気にトマト転がる厨かな」という句は「トマトが厨を生意気に転がっているように見えましたが、あなたはどう思いますか?」となります。
つまり、直前の名詞を強調しながら句全体をまとめる働きを持ち、読み手に作者の感動の焦点や光景について是非を投げかけるニュアンスも併せ持つ、そんな切れ字なのではないかと思います。
なので、句全体、少なくとも中七から下五まで繋がっていないと、しっかりとした効果が発揮されない切れ字だと私は解釈しているわけであります。
※いろいろな解釈があるので、私が絶対に正しいというわけではありません。
かなり長くなってしまうので、御句の添削
は手短に行います。ご了承ください。
・「追憶」という言葉に「秋」である必然性が出ていると思います。
・「やうなる」と直喩を使うと、少し句がダレている印象があるので、言い切ってもよさそうです。
『追憶の声なり秋の風鈴は』
「追憶の声である」と言い切って、最後の「は」という助詞で余韻を持たせました。
いかがでしょうか。
かなりの長文失礼しました。
これからもよろしくお願いします。