「花散るや屋根職人の大笑ひ」の批評
何度も失礼いたします。
ご返信ありがとうございます。
内容を拝読し、幾つかお返事差し上げたい点がありましたので、
大変恐縮ですが述べさせていただきます。
まず、私が『俳句
添削
道場』に求めているのは「評価」ではなく、
「フィードバック」です。
この違いは、非常に重要ではないかと考えております。
「評価」は句の良し悪しを上下で判断するものであり、
「フィードバック」は作品が持つ構造や表現の特性を解きほぐし、
読み手の見立てや考察を通じて、作者自身の推敲の再考を促す対話です。
私はこの場において、後者のやり取りを望んでおります。
(評価が欲しいのであれば、その様な所に投句している筈ですので)
ところが、鈴蘭さんのコメントには、「この句はここでは評価されにくい」、
「この場に合っていないのでは」という方向性に話が展開されており、
作品自体への具体的な言語的分析や読みの提示はなされておりませんでした。
また、「初歩的な読み方から学んでいる人もそこそこいる中〜」とのご発言ですが、
では「初歩的な読み方」とは、具体的にどの様な読み方を指すのでしょうか?
逆に「高度な読み方」とは何を以て判断されるのでしょうか?
客観的な定義を持たない曖昧なものであるならば、「初歩的な読み」、
「上級的な読み」といった区別を持ち出すことは、鑑賞者の発展の可能性を狭め、
場の開かれた対話性を損なう可能性があるのではないかと、私は危惧しております。
さらに言えば、『俳句添削道場』には写生句だけでなく、
観念的・実験的な句も多数投句されています。
ですので、「この句は思想が前に出過ぎて読み切れないだろう」との
ご判断であれば、個人の読みの限界を場の限界と取り違えている様に
私には思われます。
作品を「読み切る」こととは、「作者の意図を一意的に解読すること」ではなく、
句の中に含まれた構造や象徴、語法の作用などを読み解いていく営みです。
読者は主観的な追体験を試みる以上、そこに正解・不正解は無い筈です。
俳句という極めて短い短詩表現においては、なおさら「一読で理解されるものしか
読まれない」という前提を置くこと自体が、表現の幅を狭めてしまうのではないかと
私は危惧しております。
なお、ご自身の句についてのやりとりで、他者からの意見を受け止め、
作品を改めたご経験をお持ちのことと存じます。
そのお姿は素晴らしいと私は思っております。
であればこそ、他者の句に対しても「分からないから遠ざける」のではなく、
「分からないなりに言語化してみる」姿勢を共有いただけたらと、
私は願っております。
この道場は、異なる視点を持つ人同士が互いに切磋琢磨できる場であると、
私は信じております。
その前提のもと、作者も読み手も問いを交わしながら、
自由に思考を深めていければと存じます。
以上です。長文失礼いたしました。