灰空ときどき死神〜ぼくが生きた7日間〜の第2話 全4話で完結
灰空ときどき死神〜ぼくが生きた7日間〜の第2話
作者 mee(雨霧) 得点 : 0 投稿日時:
薄く膜が張られたような、天幕を被った薄灰の天球が、まるで作り物みたいに見えた。
空の向こうを想像したことはない。自分の属する領域の外のことについて、興味を持ったことがいままでなかった。海の向こうの異国、知らない川の名前、この病棟の外のこと。
――あるいは、この病院の中のことですらも。
とても青くは見えない灰色の空の下、ヒトミと名乗る少女は白いガウンで立ち尽くしていた。笑顔だった。
「ねえ、エスパーさんはさ、どこの病棟にいるの?」
「……向こう。周りの人に、何かあの棟について聞いたことはない?」
「ない、けど」
ヒトミは僕の指さす方を向き、わずかに頭を傾けた。
真っ白いあの棟に、本当に覚えはないらしかった。
彼女の周囲に、あの黒いモヤは見えない。
――つまり、彼女はこの時点で、僕よりも長生きする人間だということだ。
「あんまり誰にでも声掛けないほうがいいよ」
「あっ、もー、そんな意地悪言わずにさ! どこの病棟なの?」
ため口で話しかけてくる彼女を無視して、僕はそのまま中庭を直線に突っ切る。
色々なものを見ておきたいと思った。空や、海や、あおあおと茂る緑の葉、その香りまですべて。
「ねえってば!」
答えようとは思わなかった。初めて会った少女と長話をしているほどの時間はもうないし――いや、でも、そもそも別に、誰か話したい人間がいるわけでもないんだったか。と僕は思いなおす。
何がしたい――何を成して、自分は死にたいのだろう。死に際して、これから生きるために、僕に必要なものは何か。
一通りそんなことに思いを巡らせて、ようやく僕は自分のしてきたことの意味を悟った。
七日後に死ぬと告げた時の、同室の老女の顔。年近かった、たまに遊ぶこともあったタイチの浮かべた涙。お前は死神だと僕を罵った女性。そして、母親の顔。
――後悔しない過ごし方など、あるわけがないのだ。
百年近くを生きた老人であっても、子供であっても、大人であっても、十九年しか生きていない僕自身でも。
七日後に死ぬ。それが分かったところで、出来ることなど一つもないし、どう過ごそうと後悔はする。
「…………なに?」
僕は振り返り、ヒトミに向き直った。
何をしても後悔するし、どこへ行っても楽しくないなら。
「あっ、やっとこっち向いてくれた! いまね、ものすっごーく暇なの。この病院のこと、教えてくれない?」
「……僕もあまり知らないんだ」
「えー、だってエスパーさんなんだから、いろんなことが分かるでしょ?」
ねっ、エスパーさん!
と、ヒトミはもう一度笑った。十四歳の少女というのは、こんなに無邪気で誰にでも笑いかける人間だっただろうか。
僕が十四歳のころはそうではなかった。小説の中の主人公たちも――あまり、そういう人間はいなかった、ような気がする。
「僕が本当にエスパーに見える?」
「見える! なんだかね、変な風なのが見えるの。あなたの周りに」
「…………それは、ひょっとしてくろいもや?」
自分の手のひらを見る。その周囲には、ぼんやりとした煙が広がっていた。僕にまとわりつく死の臭い。ひょっとしてこれが――彼女にも見えているのだとしたら。
「……え?」
ヒトミはきょとんとした顔でそう言ってから、大きく口をあけて笑った。
「な、なにそれー! 全然違うよ。なんだかね、金色っていうかふわふわっていうか……そういうのがみえた、ようなきがしたの」
「ような……気がした?」
「そう。本当に見えたわけじゃなくて、感じたっていうか……。あれっ、ひょっとしてエスパーさん、そういうの本当に見えちゃう方?!」
「いっ、いや、そういうわけじゃないけど……」
僕は言葉を濁らせた。……だよな。そうそういるもんじゃないよな、こんな体質の人。
「ねえ、でもエスパーさんには、そういうのが本当に見えちゃうんだね?」
ヒトミが、僕の瞳を覗く。
白いガウン。大きな瞳。
久しぶりに人と話をしたからだろうか、なんとなく……ふしぎなきもちだった。
彼女の言う『エスパー』という言葉の響き。『死神』ではない。
「もしね、もし、あなたが本当にエスパーさんなら――わたし、知りたいことがあるの」
「知りたいこと?」
自分に見えるのは、ただ人の死期――それも、のこり一週間で、死ぬか、死なないか。それだけだ。
それだけだけど、でも大事な情報ではある。まあ、病院にいる重篤患者以外に、「少なくともあなたはあと一週間は生きられます」なんてわざわざ言われて、嬉しい人なんていないだろうけれど。
「ねえ、エスパーしてほしい人がいるの。その人の名前とか、考え方とか、あと……」
ヒトミが考えるように首を捻る。
・・・・
「命のこととか、分かる?」
「……」
「名前は分からない。考えていることも分からない、でも」
答えをする前に、僕は深呼吸して、考えた。いったい……どうするべきだろう?
息を吸う。秋の香りが肺いっぱいに入る。
「喉乾かないか?」
このわずかな時間のうちに、僕はヒトミの道楽に付き合ってやる気になっていた。
いいじゃないか、彼女の望みをかなえてやれば、少しは満足な気持ちで死ねるかもしれないぞ?
自動販売機に手を伸ばし、手持ちの硬貨をいくつか入れる。ココアと、緑茶。
「……ねえ、エスパーさん。お名前は?」
「運命」
「え?」
「運命。そういう名前なんだ」
今更、僕は自分の名前を気に入った。まるで一目ぼれするみたいに。隕石が落ちるみたいに。
――さだめ。
いい名前じゃないか、と笑って、僕はヒトミにココアを渡した。