「生き延びて嗚呼生き延びて大晦日」の批評
……まずは、個人的な感想から。
私自身、10代はもちろん、20代とか30代とかは「生きているのが当たり前」という感覚だった。もちろん、20代や30代であっても生死の境を彷徨うような大病をする人もいるから、そういう人達に比べれば非常に恵まれた人生であったと言える。
しかし、40代に差し掛かり……ちょっとした入院をしたり、初の全身麻酔による手術を受けたりもした。すると、折に触れて先の事とか、自分の寿命の事とか、自分がまともに死ねるのかどうかとかいう事を考えるようになった。
今はまだ、年老いた両親が生きていますが……現状のままで行けば、私は確実に孤独死します。元々、人間不信な所が少なからずあるので、仕方ないと言えば仕方ないですが。
きっと、50代や60代になったら、そういう事をさらに強く思い始め、そしてその事で頭がいっぱいになっていくのであろう。
人が老いるのは宿命だ。逃れる事はできない。ある段階で、「自分が徐々に失われていく事」「自分だけではどうする事もできない事が出てくる事」を嫌でも認めなければならないだろうが……他人のそれを見ているだけでも、正直辛い。
この句に書かれた「生き延びて嗚呼生き延びて」というのは、そう遠くない未来、自分の事になる。そう思いながら、句を読んでいました。
ただ……「句意の重さ」「句意の説得力」と、「句の味わい深さ」「句としての性能」は別の問題なので、一言だけ申し上げます。
【注:単なる挨拶句とか、年末年始の軽い挨拶のつもりでこの句を書きました……というのであるのならば、この先は読まないで下さい。多分、新年早々から嫌な思いをする事になると思いますので】
生き延びて嗚呼生き延びて大晦日
「句景から句意を読ませるのが俳句
である」と私は思っていたのですが、「句意から句景を読ませる」というのは……どうなんだろう。
句景抜きで句意のみを読み手に直にぶつけ、それだけで深みのある句を完成させようとするのは、実は一物読みの句を作るのと同じくらい難しい事なのではないか……と、私は思っています。
添削
案ではないですが……具体的な景や事柄を組み込んで句を完成させる事を考えるなら、
放射線投薬祈り大晦日
放射線服薬祈り大晦日
三度目の寛解を待つ大晦日
脇腹をさする年の瀬再発か
(注:投薬=点滴を含む薬全般、服薬=飲み薬のみ)
……など。
「深刻で重い句意は軽く端的に、素朴で軽い句意は重く大袈裟に」を心掛けると、読み手に対して与えられる印象が違ってきます。
それに、大変言いにくいのですが……重い句意を重く伝えられると、それだけで読み手としてはお腹いっぱいになって、コメントがとてもしにくくなります。
ちなみに、最後の一句は私です。腎結石(尿管結石)の再発率は、3年で30%、5年で50%、10年で80%だそうです。不治の病では無いですが、あの痛みの事を思うとそれだけで鬱になる……(T_T)