げばげばさん、「赤茄子」句に対する批評、ありがとうございます。
私の句歴は、連続しては3ヶ月程度、通算しても1年足らずなので、初心者・入門者の域です。ただ、初めて「投句」というものをしたときから客観的に過ぎた時間の長さだけをいえば、10年超といった感じです。
昔(手元にある歳時記の発行年月から察するに2007~08年くらいのこと)、半年ほどインターネット句会や角川「俳句」の投句を試みましたが、大して選ばれないままに(角川「俳句」で、佳作が2、3句という程度)、「第二芸術論」的な陥穽に入り込んだまま遠ざかっておりました。歳時記1冊の外には、当時の作句メモも、佳作の載った角川「俳句」誌も処分したので、当時の蓄積は綺麗さっぱり何も無いのと同じですが。
最近のコロナ禍巣籠りという状況と、ネット環境の充実を得て(今は、入門的知識の再インプットだけであれば、Amazonの読み放題サービスとYouTube動画で足りるのですから!)、再びあちらこちらのネットで無料参加できるところに投句を始めてみた感じです。
「第二芸術論」的な陥穽(これって文学と言えるの? 素人が時間使って付き合う価値あるの?)からは、まだ、ちゃんと抜け出せたとは思いませんが、「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。」(川崎展宏)という言葉を知り、ここに何らかの手がかりがあるように感じているこの頃です。
さて、御句について、先にあるイサクさんの批評と同じく、「~底に秋」で終える形の方がよいと感じます。
ただ、「貯水池」という音読みの響きには人工的・工業的な感じがして、これに思い入れがないならば、「ため池」のほうが素直かなと思い、「ため池や」と変える提案句とさせていただきました。
「波紋」という水平方向への動きと、「の底の底」で垂直方向に誘導するベクトルとの交差がこの句の核になると思うので、「波紋の底の底」は動かしがたいものと見ています。でも、この「波紋」は有効に働いているか、というと・・・・。
以下は、私の改作です(発想の元はげばげばさんの句ですが、「波紋の底の底」を生かした一句にはまとめられず、元の語が殆ど残っていない代物になってしまったので・・・)。
波立てるみづうみの底秋の默(もだ)
秋の気配が静かにゆったりと存在している感じとして、「閑」にかえて「默」にしてみました。が、これはこれで、句の末尾に「默」というのは何とも手垢のついた言い回しという感じであり、また「秋」の擬人化になっていて、まだまだ足りないとは思うのですが。とりあえず、今日考えた結果としてここに載せておきます。
今後とも、よろしくお願いします。