「境内の朱塗りを囲む木の芽かな」の批評
おはようございます。貴句、拝読いたしました。
以下長文、お含みおきください。
この句は、初読で晩乃さんらしくないなと私めには見えました。何故なら、
朱塗りの神社であれば何処の神社でも、誰にでも詠めてしまうのですから。
ネットで検索すれば何百件ヒットする様な神社の景色の記号の組み合わせ。
既製品のラベルの貼り替えに過ぎず、ただのひな型、型板、鋳型の配置。
それでは「詠んだ」とは言わないんですよ。作者独自の詩が無いのですから。
俳句
は絵葉書でも、観光地のパンフレットのキャッチフレーズでもありません。
全くオリジナリティが感じられませんので、作者の感動も全く伝わってこない。
他者様のコメントも迎合が過ぎる。イメージ先行で思考停止の極み。
何処の神社なのか? どの様な木の芽なのか?
境内を踏みしめた足の感触はどうだったのか?
地元の神社を思い出された現在は、どの様な心情なのか?
地元の神社の過去の景と、現在のご自身が置かれている景はどの様に違うのか?
それらをお書きになってこそ、
「作者にしか詠めない感動が込められた、この世で唯一無二の句」でしょう。
だからこそ、それに自然と詩心が宿るんですよ。
意識しなくたって、詩なんて後から付いてくるんですよ。季語
自体が詩ですから。
東京なんですよね?
明治神宮外苑の木の芽はどの様になっていますか?
行幸通りの木の芽はどの様になっていますか?
町田、高尾、八王子、拝島、青梅、奥多摩、日野、立川の木の芽だったら?
東村山、中野、新宿、池袋、品川、蒲田の木の芽だったら?
それぞれ違う木の芽でしょうよ。
東京には「東京ならでは」の句材が幾らでもあります。
大都会の東京の高層ビルを背景にした木の芽と、
大都会の大阪の車の排気ガスを浴びた御堂筋や長居公園の木の芽と、
奈良県の急坂ばかりの田舎の三郷(さんごう)の山の木の芽はそれぞれ同じで、
それが見える景色はそれぞれ同じでしょうか? そんな訳無いですよ。
句材は降ってくるのを待つものではありません。五感を研ぎ澄ませ、
心の目、心の耳、心の鼻、心の肌で観察し、ご自身で掴み取るものでしょうよ。
バス停で「息白し」とお詠みになった晩乃さんは、
一体何処へ行ってしまわれたのでしょうか? 私めには、とても残念です。
以上です。ご覧いただき、ありがとうございました。
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お題で一句。地元の神社を思い出しました。