「天上の光凝りて雪降りぬ」の批評
こんばんは。
表現そのものは大変詩的で私も好きな感じなのですが、
実際に雪が降る場合は、風花などを除けば「雪雲」がそこにあり、一面に広がる分厚い雪雲により空が見えないケースもあると思います。その「雪雲の空」に対して「(雪雲で見えてない)天上の光が凝る」となると、理屈寄りのファンタジー、という気はしますね。
で、
表現したいことから察するに、上五「天上の」は省略可能なのでは・・
雪が上空から降ってくるという常識さえあれば「光凝りて雪となる」これで「空の光が凝って雪」という句意であることはわかると思います。
あとは上五の五音をどうするか、というところですが・・
ちゃあき様の句の勝負所は、「光が凝って雪となっている」という比喩を、十七音の残りの部分で「言われてみればそうかもしれない」と思わせる説得力だと思います。
げば様は現実の風景を足しました(ちゃあき様が納得できるかどうかは置いておきます)。
さて、ちゃあき様ならばどう推敲しましょうか?
私なら・・私にはこれは非常に難しい問題でした。説得力を上手く出せません。
なので違う形の比喩になってしまいます。
・天空の光の粒を雪と呼ぶ
でついでの話へ。
虚子の句について。
・金の輪の春の眠りにはひりけり
・秋天にわれがぐん〵ぐん〵と
これらの句はどちらも「自分」を詠んでいます。なので「自分が金の輪の中に入ったような春の眠さだ」「自分が秋天に向けてぐんぐんと○○したようだ」(○○の解釈は受け手にお任せします)と作者自らが感じていて、それを表現しているだけのことです。
自分の気持ちを比喩で表しているだけで、それを受け手が解釈し共感できるかどうか、という句なので、ファンタジーというわけではありません。ちゃあき様の句とは違うように感じます。
添削のお礼として、イサクさんの俳句の感想を書いてください >>
昨夜、空中に光の粒子が凝集して雪となって降る夢をみました。
何となく縁起のいい夢のような気がしたのて詠んでみたのですが、「天上の光」はちょっと大げさです。半日近くかけて何とかこの形に・・・
よろしくお願いします。