俳句添削道場(投句と批評)

みつかづさんの添削最新の投稿順の110ページ目

「ハイウェイのパラパラ漫画冬茜」の批評

回答者 みつかづ

添削した俳句: ハイウェイのパラパラ漫画冬茜

 
こんばんは。何度も失礼いたします。

貴句、動詞をお使いでない事に今頃気付きました。私め、全然読解できてないな…。
実景ではないでしょうし、パラパラ漫画は入りませんが、前句の作者コメントに
お書きの「途切れ途切れ」。使える事が判明いたしました。

ネギさんがお書きの高速道路は、
自動車専用道路(都市高速、名阪国道、名豊道路など)ではなく、
高速自動車国道(新名神、東名、山陽道、関越道など)ですよね、きっと。
念の為、以下別案でございます。JCTとは「ジャンクション」の事でございます。

C:JCT途切れ途切れの冬茜

これで、動詞無しでも「高速自動車国道を走っている」と分かりますし、
JCTですので柱やカーブ、樹々が時々視界を遮るので、途切れ途切れに
冬の夕焼け空が美しく見えておりますと、詠めますよね。
今は、80km/hで走る事ができるJCTございますので。

何故、今まで気付けなかったんでしょう…。
私めの読みが浅いとしか言い様がございません。
今頃申し訳ございません。
 

点数: 1

「皸やフォークで食べるチヨコリング」の批評

回答者 みつかづ

添削した俳句: 皸やフォークで食べるチヨコリング

 
ゆとりろさん。初めまして、こんばんは。みつかづと申します。
貴句、拝読いたしました。

チョコリング、美味しそうですね。私めも夜食に食べとうございます。
私めが患っていた掌蹠膿疱症よりも痛いでしょうし、大変お辛そうですね。
気になったのは以下の2点でございます。

①:動詞「食べる」が説明そのもの
フォーク「で」が手段の説明になっておりますね。食べる為の食器ですので。

作者コメントを拝見しますと、本来お詠みになりたかったのは
「皸の手で、べとつきを避ける生活感」。つまり 身体感覚と小さな工夫ですよね。
ただ、句ではそれが手順の説明文に堕しており、読者としては
「分かるけど、詩になり切れていない」感触ではないかと考えられます。

②: 「チョコリング」との具体化の是非
作者コメントには「手がべとつくのがいやでドーナツはいつもフォークで
食べてます」とございますので、「本来なら抽象化してもいいのに、どうして
具体化なさったんだろう?」と引っ掛かりました。
「これは“チョコリング”でなければならない理由がありますか?」との答え(核)が
明確でないと、その名詞(チョコリング)は句を支えていない事になります。
具体化なさった理由の可能性は以下が考えられました。
1:字数・具体性優先
・「ドーナツ」だと凡庸
・固有名詞的な「チョコリング」で映像を立てたかった
2: べとつき強調
・チョコリング=特に汚れ易い
・皸との相性を強調したかった
→ ただ、句中ではそこまで機能していない様に見えてしまう可能性がございます。
結果として、
・作者コメントと句の焦点がズレている
・「チョコリング」が主役になり過ぎて、季語の主役性が立ち上がりにくいという
印象を読者に与えてしまいかねません。

そこで、①、②の解決の為の私めからの添削提案は以下でございます。
具体的には「語順の入れ換え」、「動詞の変更」でございます。
破調で申し訳ございません。

・皸よチョコリングを刺すフォークよ

上記添削案の特徴でございます。
・動詞「刺す」は、必要最小限で行為が一瞬化されている
・間投助詞「よ…よ」による往復構造で皸→フォーク→皸という感情の回帰がある
・嘆き、不自由さのニュアンスも自然
・作者コメントを知らなくても成立する点が強い

以上、ご参考になれば幸いでございます。お目通しいただき、感謝いたします。
 

点数: 1

「ただいまのトーンの低し薄氷」の批評

回答者 みつかづ

添削した俳句: ただいまのトーンの低し薄氷

 
こんばんは。お久しぶりです。貴句、拝読いたしました。

トーンという単語には「色調」の意味もございますので、
私めはダブル含意ではないかと初読で考えました。
何故なら、季語「薄氷」は初春・地理の分類だからでございます。

①作者が外にいらっしゃり、「ただ今ここは、まだ初春なので景色の色調
(草木の伸びなど)が低く、低い位置に薄氷が張る位の寒さですよ」との心象的意味
②作者が庭先や玄関先などで、ご家族の「ただ今」の声を聞いた視線の先に、
薄氷が見えた意味

繰り返しますが、季語「薄氷」は初春・地理の分類ですので、
・地面、・水鉢、・軒下、・置物など、必ずしも視点が地面に限定されません。
ですので形容詞「低し」で、「低い場所に薄氷が張っておりますよ」と
明示されているとの読解は自然に成り立ちます。
つまり
・声のトーン、・景色のトーン、・薄氷が張っている位置の低さを
同時に含み得る訳でございます。

私めが気になったのは、形容詞「低し」の活用形が連体形「低き」で
季語に係っておらず、終止形で切れて唐突に季語が現れている事でございます。

・声のトーンが低い ・春の色調がまだ低い ・薄氷が地面、水面という低位に張る

この3つは垂直方向の感覚(低さ)で統一されております。
したがいまして、形容詞「低し」を終止形で切る→概念が宙に浮いてしまい、
切断による多義の放置が起きます。
「低き」と連体形で季語に係らせる→低さの収斂点が季語に定まり、
多義を保ったまま季語「薄氷」に収束させる事が可能でございます。
この差は大きいでしょう。

以上の事から、私めからの添削提案は以下でございます。
具体的には「活用形を変える」だけでございます。

・ただいまのトーンの低き薄氷

上記なら、拡散している多義性の含意を季語の一点に集める事ができますよね。
実景と心象がより適するのではないでしょうか。

以上、ご参考いただけましたら幸いでございます。
お目通しいただき、感謝いたします。
 

点数: 1

「曇天の冬空見上げ我想う」の批評

回答者 みつかづ

添削した俳句: 曇天の冬空見上げ我想う

 
こんばんは。初めまして、かもしれません。みつかづと申します。
貴句、拝読いたしました。

典型的な「三重説明型」に陥ってしまっていますね。
・曇天:天候状態の説明
・冬空:季語(ですが直前の説明に埋没)
・見上げ:行為の説明
・我想う:心情の直叙
結果として、景→行為→心情が全て言語化されてしまい、詩的跳躍がありません。
少なくとも、動詞「見上げる」は外せますね。
空の天候が提示された時点で、見上げている事は当たり前だからでございます。

作者コメントを拝見いたしますと、「自分を見つめるのが一番難しい」と
ございますので、意外と「我」、「曇天」は外しにくいのではないか、と。
曇天=心象投影の可能性が十分ございますし、
・冬空(客体)
・曇天(主体側の状態)という二層構造を作る事ができる為、
曇天は残す価値が有るのではないでしょうか。

私めからの添削提案は、具体的には動詞「見上げる」を削ぎ、
語順を入れ換えるものでございます。助詞の意味も考慮に入れて。

・冬空や我の想いは曇天に

上記で、句意はそのままに句の字面が作者コメントに寄り、以下の効果になります。
・季語「冬空」を上五に据えて、句の主役としての主導権を握らせている
・「や」による自然な詠嘆
・中七「我の想いは」で、ふっと内側に視点が折り返される
・下五「曇天に」で、景と心象が静かに重なる

「今どう感じているか、何に疲れているか、何を欲しがっているか。
そうか。俺の心も曇天だなあ」とのという読後感が、
無理なく立ち上がるのではないかと私めは考えてみた次第でございます。

ご参考になりましたら幸いでございます。
以上でございます。お目通しいただき、感謝いたします。
 

点数: 2

「空すべて空色となり春来る」の批評

回答者 みつかづ

添削した俳句: 空すべて空色となり春来る

 
こんにちは。お久しぶりです。貴句、拝読いたしました。
以下長文、お含みおきください。

動詞「変わる」を使わずに空の色が空色(水色の言い換え)に変わった感慨を
表現なさりたかったのかなと、私めは初読で考えました。
イサクさんが仰った◆の2つめに近い印象は私めも初読で受けまして、
演出ではないかと考えましたが、これを安易に同義反復と決めてしまうのは
いささか早いのではないかと、私めは慎重に読みを入れてみました。

そして、開いて確認できた作者コメントの「快晴」。腑に落ちました。

私めが気になったのは以下の点でございます。
前提:「知覚→判断」の運動が句中に可視化されていない

①:認識の契機が書かれていない
・何故「春来る」と判断したのか
・何を見て、どの様に変化を感じたのか
上記が、「空すべて空色となり」に完全に内包されたままで、
「春来る」という判断の根拠、視覚変化の因果の線が、語としては提示されているが、論理的接続が句中で起きていない様に感じられました。
つまり「情報はあるが、運動が無い」様に見えてしまうのでございます。
結果として、
・実景なのか
・心象なのか
・気象の描写なのか
・比喩なのか
上記の焦点が定まりにくいのではないか、と。

②:同語反復が「変化」ではなく「説明」と解釈されてしまう危険性

元句の空色は水色の言い換えにも解釈は十分可能でございます。
しかし元句では、「空」→「空色」への移行が、
時間変化なのか、それとも状態説明なのかが文法的に曖昧でございます。
結果、「空は最初から空色では?」という解釈が排除し切れないのでございます。

③:季語「春来(きた)る」が「判断」に見え易い
季語「春来る」(私は助動詞「たり」が見えない為、私めは「来たり」と
表記いたしますが、それは置いといて)は確かに季語「立春」の傍題で
共に「初春・時候」の季語でございますが、微妙にニュアンスが違います。

立春:雪が降っていようが寒かろうが、「今日から初春です」との制度的切り替え
春来(きた)る:何かが変わった「兆し」を捉え、作者の感覚が介在。
・感覚的、体感的
・「あ、春が来たな」と主体が気付く瞬間
・主観・内面・変化の知覚

つまり、季語「春来(きた)る」は「認識の成立そのものを詠む季語」との
解釈が成り立ちます。

元句の字面では、
・空が空色なのは「いつから」か
・変化なのか、恒常なのか
・見た瞬間なのか、既知の事実なのか
上記がやや曖昧で結果、季語「春来る」が「暦的宣言」、つまり立春と完全に
同義であると解釈できてしまいます。それでは季語表記を変えた意味が表れずに
知覚 → 認識の流れが核が表現し切れておらず、勿体無いと私めは感じられました。

上記3点の解決策として、私めからの添削提案は以下の2つでございます。
季語を「春来」(はるく)に変え、古語句にて申し訳ございません。
動詞「来」の読みはAは「き」(連用形)、Bは「く」(終止形)でございます。

A:見し空は空色なりき春来けり(認知完結。発見の気付き)
B:見し空は空色なりき春来めり(認知未確定。観察の途中)

直接過去の助動詞「き」は1回目が連体形。2回目は終止形で切っております。
過去の助動詞を1句に3回使うのは珍しいかもしれません。

A案の特徴は以下でございます(伝聞過去の助動詞「けり」。連用形接続)
・気付き、詠嘆、腑に落ちた瞬間
・「あ、春が来たのだ」
・暦への気付きに季語の軸が乗る

B案の特徴は以下でございます(視覚推定の助動詞「めり」。終止形接続)
・視覚情報(空の色)からの推定
・「どうやら春が来たらしい」
・感覚の発見に季語の軸が乗る

Aの方が作者の実感に近いのではないかと私めは考えますが、
元句の以下の構造上の問題が解決されたのではないかと思います。

・「すべて」=極端化
・「空色」=抽象色名
・「となり」=結果状態の固定
上記が合わさり、
・実景(観測可能な具体)
・抽象(概念的把握)
上記が一気に跳躍してしまっており、読者は
・「何を見たのか」は分からない
・しかし「どう思ったのか」は強制される
→説明的なのに、具体が無い。

最後に、俳句の構造論。
何故「説明的」と「委ね過ぎ」が同時に成立するのかという点について。

俳句特有の現象で、構造的に申し上げますと
・結果だけが書かれている
・過程が完全に省略されている
そのため、読者は
・「なぜそう思った?」と迷う(=委ね過ぎ)
・「そう感じろと言われている」と感じる(=説明的)
上記は叙述の省略ではなく、「思考の省略」が起きている状態ではないかと、
私めは考えております。
そして、抽象が実景から立ち上がっていない様に見えてしまいますと、

本来なら、
・実景の差異(色・光・濃淡・気配)
・認知の変化
・季語による確定
という階梯があるべきところ、
・①と②が同語で圧縮
・③が飛躍的に接続している。
よって、「比喩か? 概念か? 実景か?」が読者側で整理不能になる。

上記の様に、私めは俳句の構造をメインに捉えておりますが、皆さんはどの様に
お考えでしょうか? あくまでも「構造面」(句の推敲段階)の観点に興味があり
それが私めの知りたい所であり、感覚論(最初の句想。パッと見のイメージ)の
お話ではございません。
皆さんの構造論をお聞かせいただければ幸いに存じます。

以上、ご参考になれば幸いでございます。
お目通しいただき、感謝いたします。
 

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