「大橋の完成はいつ赤潮来」の批評
回答者 卓鐘
添削した俳句: 大橋の完成はいつ赤潮来
独りよがりのアロハシャツにコメントいただきありがとうございます。また悩ませてしまって申し訳ありません。はしゃいでは、自分が面白いという工夫はさして面白くないということを身につまされてしまいます。提案句、いいと思いました。ありがとうございます。
御句、「赤潮来」ここに不吉な予感を感じますね。
点数: 0
回答者 卓鐘
添削した俳句: 大橋の完成はいつ赤潮来
独りよがりのアロハシャツにコメントいただきありがとうございます。また悩ませてしまって申し訳ありません。はしゃいでは、自分が面白いという工夫はさして面白くないということを身につまされてしまいます。提案句、いいと思いました。ありがとうございます。
御句、「赤潮来」ここに不吉な予感を感じますね。
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回答者 卓鐘
添削した俳句: 見上げれば父母の笑顔や夏の雲
夏の雲といえば、読み手は見上げます。(自分がした行動を言わなくても、読み手に同じ行動を(想像で)取らせることができれば表現できたことになりますね。)雲をみて、親の顔を思い出すというのが類想感がすごいです。ベタの中にも、オリジナリティーを。
ふぅ。添削サイトということで、どうしてもこういう指摘になってしまいますね。なんか、すんません。
コロナで命日を過ぎて延期した法事の最後の客を見送って、ホットして空を見上げた。ほっとした気持ちと、天国の父を懐かしむ。そんな情景を提案句としたいと思います。
<蛇足>
以前どこかで旧かな使いをすべきかすべきじゃないかという質問を見かけたので。俳壇では、以下の見解のようです。(本などを見る限り)
・旧かなを使うか現代かな使いを使うかの立場を明確に
・同じ俳号でそこを混ぜない方が良い。(句によって変更しない)
理由は、旧かなと新かなが句集などで混ざると良くないから。
まぁ絶対のルールじゃないので、どう思うかは人それぞれでいいかと思いますし、いまいち理由に僕自身はさほど納得していないですが、俳句の世界ではこれが共通認識に近いようです。(参考まで)
点数: 1
回答者 卓鐘
添削した俳句: 先ほどの句について
俳句も表現行為なので、俳句で「いけない行為」というものは存在しないと思います。自分が俳句だといえばそれでいいと思います。
ただ、好きな表現をすることと、作品として評価されることは別問題なので、添削としてのコメントは、こういうところを気をつけると「俳句作品」としては評価されやすいかもですね。ということだけです。ただ、人によって感じ方も評価の基準も(プロの世界でも)当然別れるので、絶対的にどうだということはないのですが。それでも一定定石のようなものはありますね。
ということで、先の句は、表現の自由として何も問題ないと思います。(著作権とか等に切れているでしょうし。)
点数: 2
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