「葉脈を伝ふ雫や山覚める」の批評
晩乃さん、お早うございます。貴句、拝読しました。
皆さん誰もツッコミ入れてませんけど、「葉脈を伝ふ雫」が変ですね。
葉脈とは「植物の葉に見られる筋状の組織で、根から吸収した水や栄養分を運び、
葉を支える骨格の役割(血管と骨の様な働き)を果たす器官に見られる
維管束の筋。茎と連絡して水や養分を供給し、合成産物を運ぶ通路の役をする葉の
器官の事」であり、葉の内部構造です。つまり、人間でいうところの血管です。
血管の中を流れている血なんて目視できますか? それと同じ事です。
葉脈を伝う雫なんて色付きの水でも吸わせて流れてない限り、
顕微鏡をお使いになるか、もしくは晩乃さんに透視能力が無いと目視できませんよ。
葉脈の筋の上であれば「葉の表面」ですので、それを葉脈とは言いません。
葉脈から染み出づる雫、溢れ出す雫なら、目に見えるので不自然じゃないですが。
植物学的には以下。
1:葉脈(内部)を通ってきた水が、
2:水孔(すいこう/葉の縁などにある穴)から染み出して、
3:雫(外部)となって現れて、見える。
単語の本質を理解せずに、雰囲気や詩情を出そうとして単語選んでませんか?
変に飾らなくても、「曲がる葉を」、「しなる葉を」、「朝の葉を」等ではダメな
理由ありますでしょうか? それなら雫は作者に見えても不自然ではありません。
下五の季語
「山覚める」は、手持ちの『新版角川季寄せ』には載っておりませんが、
「山眠る」が三冬・地理の季語ですので、その対義表現として
季語としてお使いになるのはアリでしょう。
「山笑ふ」程にまでまだ大きな変化が見られないけど、
春の芽吹きが山々に感じられるのであれば、その前段階として。
とにかく、上五は要推敲かと思われます。
そうでないと植物学者か、不気味に見えてしまいますので。
以前に「思考停止の極み」と私めが断じたのはこういう事ですよ。
現に、コメント陣の誰1人「葉脈でいいの?」とツッコミ入れてませんでしょう。
共感という名の集団的な思考停止に陥ったら、誰1人として作句も、鑑賞も、添削
も
上達できなくなってしまいます。違いませんでしょうか?
晩乃さんは、「人格攻撃と論評のどちらかであるかを判断するのは読者」、
「誤解されて人格攻撃と受け取られる」と私めにお書きでしたよね。
その様な忠告は不要。論評を個人攻撃と判断する方がいらっしゃるのら、
私めはそれでも構いません。
何故なら、その方が「思考停止しています」と自白する様なもので、
論評を人格攻撃と捉える者は、論理の土俵から逃げ出しているだけですので。
それよりも、今の晩乃さんには私めの事を心配なさるよりは、
「国語辞典、古語辞典、歳時記
の3点セット」でご自身の作句、
鑑賞に真摯に向き合う事こそが優先事項ではないでしょうか。
ツッコミ入れられたくなければ、句や鑑賞文で論理的に示せば済む事なのですよ。
以上でございます。お目通しいただき感謝いたします。
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出勤景。私はいつも眠いですが。