「つなぐ手の冷たき夫や花の塵」の批評
初めまして。こんにちは。みつかづと申します。
貴句、拝読しました。
キツいと受け取られる表現もあるかと思いますが、真剣に考えての事です。
長文です。お含みおきください。
結論:誤読される危険性が極めて高いおそれあり
理由と考察:
トップページには、句の字面、作者、更新日時しか表示されません。
字面を冷静に見ていきますと、以下の様な読解が自然に成り立ってしまいます。
「(夫と)手を繋いだ」→「その手の何と冷たい事であろうか」→「花の塵」
→「ゆきえさんの夫が亡くなられた時の記憶をお詠みの句ではないか?
亡き夫の手を棺の中で握った時のことかもしれない。
夫が好きだった桜の花びらも添えて…」と。
句中の「や」が「冷たき夫」を強調、あるいは問い掛け(活用語の連体形に
接続している場合、疑問、問い掛け、反語の意味も在る)する構造に
なっている以上、どうしても「死別の句」と読まれてしまう可能性が高くなります。
現実はそうでなくても。
語の意味や位置関係に注意すべきなのは自立語(名詞、動詞など)だけでなく、
付属語(助動詞、助詞)も同様です。
句に「添」えるべき単語、句から「削」ぐべき単語(添削
):
作者コメント「歩くときは手をつなぐ」を拝見しますと、
「夫の手の冷たさ」自体には大きな比重は無いと私は判断しました。
ですが、「夫のリハビリなどの介助の景の句」である可能性も否定できません。
誤読を避ける方向で、私なりの案を以下に提示いたします。
A:手を繋ぐ夫の先に花の塵
B:手を繋ぐ夫ゆつくり花の塵
A案は、夫と手を繋いで歩く光景。前方に散り落ちた桜の花。
夫の手を繋いでいるのは作者。
B案は、夫の屋外での歩行練習や介助の様子。
「ゆつくり」によって時間の流れを柔らげ、季語
の印象と調和を目指しました。
夫の手を繋いでいるのは作者とは限らない(介助者)
この様にしますと、「夫との死別」なんて誰も思わないのではないでしょうか。
以上、ご参考までに。ご覧いただき、ありがとうございました。
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歩くときは手をつなぐ