「かなしびの向かふに並ぶ土筆かな」の批評
おはようございます。
◆意味の切れが全くなくつながっていると受け取った場合、
「かなしび」という単語が曖昧で、「かなしびの向かふ」ということばで作者が描こうとしている映像が何なのか、受け手が想像するのはとても大変だと思いました。
「かなしびの向かふ」という広い映像が想像できないまま「並ぶ土筆」という小さい風景に視点が移動して、広い映像が曖昧なままになりもやっとします。
◆「かな」構文なので文法上は繋がっているのですが、意味の切れがあると解釈することも可能です。
(例えば、「遠山に日の当たりたる枯野かな/虚子」の句の中七「日の当たりたる」は「遠山」にかかっていて「枯野」にかかっていないのは有名な話ですね)
・「かなしびの/向かふに並ぶ土筆かな」
(かなしびの⇒土筆、という意味にもとれる)
・「かなしびの向かふに並ぶ/土筆かな」
(かなしびの向かふに【自分が】並んでいて、取り合わせの「土筆」。虚子の「遠山」と同じ形)
意味を上記のように考えることも可能なので、より一層解釈が増えて、どれが作者の言いたいことなのか迷います。「受け手に任せる」のと「迷わせる」のは違うので、少し整理をした方がよいと思います。
たとえば「観念」を「風景」の中に混ぜると観念で風景が見えにくくなるので、もっと措辞を観念に寄せるか、シンプルに風景と季語
に託すか、など・・・
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某句選のお題です。
こて調べの一句です。
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