「鬼やらうことこそ家の小さき福」の批評
回答者 イサク
こんにちは。
先に他の型のコメントを見ましたが・・
この句では作中主体が「小さき福」と思っています。それを認めることこそ本来の多様性ではないのかな?
(俳句で他人の思想に踏み込むつもりはなく、以後論点から除外します)
◆「鬼遣らひ」という季語がなぜ「豆撒き」と別季語扱いなのか・・は考える必要がありそうです。「鬼を遣る」という言葉通り、過去句も「鬼を追い出す行為(として豆を撒くこと)」を主たる意味として使っているものが多く、「一般家庭の豆撒きという行事」とはやや趣が異なる季語のようです。
このままでは「豆を撒くこと・鬼を追い出すこと」が「小さき福」と言っている句に・・・
◆「こと」は省略できますね。
・豆撒きこそ小さき福ぞと思ひけれ
・家庭とは福ぞと思ふ福は内
頓様の疑問は、もともと「鬼やらう(ふ)」という動詞の名詞用法で「やらい(ひ)」となっていて、作者の意図が「鬼やらうこと」と「こと」に繋ぎたい意図があり、使い方としては問題ないと思います。過去句で「鬼やらう(ふ)」の終止形止めの形で使っている句もありますよ。
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妻がいて子がいて豆まきをして節分を祝う
節分は鬼を払い福を招き入れるというが、こうしていられることこそが福そのものだ