「競り負けて聞こゆ校歌や雲の峰」の批評
こんにちは。
この句に対し、定石として指摘すべきは「動詞が多い」だと思います。「競って」「負けて」「聞こえる」という順を追った動詞の並びが、この句全体を報告っぽく感じさせます。
この3つの動詞で何れが一番大事かとなると「負ける」だと思います。どんな負け方をしたか(これまでの経過)は読み手の想像にに任せてよい所と思います(流れてくる校歌を気に留めて「これが自校の校歌だったなら」と思えるとしたら、それが接戦だった、十分に勝つ可能性のある試合だったのだ、とも読めます)し、「聞こゆ/聞く」は「歌」に対しては特に書く必要のない言葉と見えます。「競る」「聞こゆ/聞く」のどちらかは削って良いと考えます。(両方削るのは“添削”としてはやり過ぎな気もするので…)
削って音数を稼いだところに補うべき情報は、「校歌」が“相手校の校歌”だということだと思います。
負けて聞く相手の校歌雲の峰
競り負けて相手の校歌雲の峰
・季語「雲の峰」は取り合わせたものと思いますので、選手自身に見えているかどうかはあまり考えなくて良いと思います。次回のリベンジに心を奮い立たせる感じとも、このすぐ後に選手達に訪れる悔しさの嵐の予感とも、受け取り方はいろいろありそうですが。
・「テレビ鑑賞を俳句に詠むこと」について。自分の直接経験していないところから句を作るというのもアリだと思います。先日の俳句甲子園や、(私は経験ありませんが)句会の“席題”といった場を考えると、そこでは実物を見て句作している余裕などありません。過去の記憶や知識から作るのは当然アリで、その情報源としてのテレビもまた然りです。
…ただ、テレビの情報は、(特にドキュメンタリーやドラマなどは)既に他者の編集が入ったものだという点は注意が必要かとも思いますが(感動したところをそのまま詠んでも、誰かの思考を思惑通りになぞっているだけ、という可能性大)。
よろしくお願いします。
添削のお礼として、長谷機械児さんの俳句の感想を書いてください >>
今日は甲子園、決勝でした。仕事の合間にチラっと観てました。
決勝らしい試合でした。
悩みどころは『聞こゆ』です。
競り合った末に負けてしまった。
整列して勝者の校歌を聞く場面。
『聞く』では字足らず『聞きし』では過去形『聞きたる』では字余り、
『聞こゆ』にたどり着きましたが、形式ばってる感じが。。
実際、球児は雲の峰を見てるというより涙で何も見えないのではないかと思いますが。
そして何より、テレビ鑑賞を俳句に詠むことの是非も考えてます。
宜しくお願い致します。
※仕事の都合で返信が遅くなることがありますが、そこのところはご了承ください。