「次の世はあるのか否か月に問い」の批評
おはようございます。という時間から御句へのコメントを考えていて、もう日が沈みました。こんばんは。
少し偉そうな感じになりますが失礼します。
御句、私の考えとしては。俳句かどうか、と問われれば俳句です。思想・観念的でも良い句は良い句です。
去年今年貫く棒の如きもの/虚子
俳句でやってダメなことはないと考えます。
(基本を守らないと初心者は失敗しやすいとか、句を他人に見せるならばそれ相応のマナーがあるとか、それらは一旦別の話で)
なので、俳句で思いを吐き出すということをやっておられる方も多数おられます。句を受けとった人を不愉快にしなければ構わないのではないでしょうか。
通常運転で技術的な面を。
他の方のコメントとかぶるところもあります。
◆「次の夜はあるのか」で「否か」は省略可能ですね。逆に「否」を強調することで得られる詩もあると思いますが、その点を後述します。
◆「問い(かける)」が「あるのか否か」と重複しているというのは他の方と同意見です。語順が逆なら「問う」を生かすことは可能と考えます。
・月に問ふ生まれ変はりはあるものか
そして、もんな様の意見として「命は永遠」「死んだら無」「生まれ変わりはある」などの意見のうち、どれであってほしい、どれを信じている、というのはありますでしょうか?
説明的な言葉は不要ですが、もんな様の思いが句にのることがよいかと思います。その際に「否定」を強調して得られるものがるかもしれません。
・死とは無と言はれたりけり月上る
句では「死とは無」を否定せず。でも作者自身は死は無だと思っていない、ということを季語「月上る」で匂わせることができているでしょうか?どうでしょ?
添削のお礼として、イサクさんの俳句の感想を書いてください >>
月を眺めながらぼんやり考えてました。
昨年の10月に父、11月に叔母(姉のような)が亡くなりました。
生前父は、人は死んだら「無」になると、叔母は「命は永遠」だと言ってました。
誰も知らない真実、でも月は知っているのだろうか?
このように、景色も描写もない句は俳句と言えるのでしょうか?
それともこれは自分の中の詩として収めるものなのでしょうか?
宜しくお願い致します。