「みな遊ぶ川の浅瀬の西瓜かな」の批評
こんばんは。
私の戻る戻らないは置いといて、なおじい様のコメントを知らずに久々に書きこんでました。コウ様のコメントで気づきました。まさかの当日とは。
このところ頑張りすぎていたなおじい様として、ご本人何らかの区切りをつけたい気持ちはあるのだと思います。ひとまずご休憩ということで。
こちらのサイトは旅に出るとか戻るとかあまり深く考えずに出入りすればよいかと思います。私もそうします。がんばりすぎると疲れちゃいますからね。
で、いつもながらのコメントに参ります。
上五を説明のために置いた、とコメントにありますが、やはり上五に説明感が強いと思いました。まずは「みな」だけでも省略してみたい気がします。
・遊びたる川の浅瀬の西瓜かな
「みな」まで言わなくても、遊んでいる川に西瓜があれば、複数人で遊んでいそうな気がします。また「西瓜が遊んでいるかのように浮いている」という意図していない擬人の風景も出るかもです。
で、次の段として、
◆「浅瀬」と「川」と情報がかぶっているので、どちらか省略したいかも?
◆このままで「西瓜」が主たる季語なのはわかりますが、「川遊び」という夏の季語感のある言葉をどこまで払拭するか?このままいくのか?
とかですかね。
たとえば他の風景を足して
・三家族来たりて川に西瓜浮き
・持ち寄りて川に西瓜の五個浮きぬ
他にもいろいろできそうです。
添削のお礼として、イサクさんの俳句の感想を書いてください >>
こんにちは。前句「トマトに砂糖かける人」にはたくさんのコメント有難うございました。
途中で他の方へのコメントに書きましたように、そうする人を否定する気持ちなど全くありません。トマトを例にして、世の中には色々な趣味嗜好の人がいるという(そんな大それたことではないけど)、そんな気持ちでした。
本句はお題で。この季節、水の事故が増えていますね。特に川の事故は痛々しい。私は小さい頃よく田舎の川で遊びましたが、怖い体験もしました。でも思い出に残っているのは、川の浅瀬で冷やしていた西瓜です。流れてしまわないように石で囲んだりして。陽の光にキラキラしていて、後で割って食べるのを楽しみにしていたことを思い出します。
どういう状況かわかっていただこうと入れた上五の「みな遊ぶ」が説明的かなと不安です。
ご意見よろしくお願いします。