「湯気立や母はひそひそミシン踏む」の批評
こんにちは。御句たのしく拝見しています。
足踏みミシンですか。動作音はそれなりに目立つとは思うのですが、現代の機械式ミシンと比べればたしかにひそやかかな、また踏み方や縫っている生地の厚さにもよって小さくもなるだろうし…と思います。
この「ひそひそ」ないし「ひそか」さ、純然たる音量の問題というかお母さまのご様子それ自体やげばげばさんの思い返している心情にも掛かっているような気がしました。ちょっとほっこりと思い返していそうな。とすると、「ひそかなる」「ひそやかなる」を選んだ時に少しだけ客観的なにおいが強くなりすぎてしまうような気がしました。
添削というか、自分だったらどうするかなあみたいなことなのですが、
切れ字があることで湯気の立ってるタライだか薬缶だかに一度意識か視線が強く寄るような気がして、自分なら切らないかなあと思いました。たぶんなんですけどその部屋か隣室かでストーブの上に湯気立ての音がする、お母さまがひそひそと縫うミシンがかたかたと音をたてながら回っている、でこの句の主題はお母さまの縫っているミシン、というような気がしています。また、お母さんが縫ってらしたのをげばげばさんが見てたのなら、恐らく「母」は抜きにくい、というか抜くとよくわからなくなりそうです。
個人的な好みとしては動詞の「踏む」を抜いて詠みたいなと思いますが、今日び機械式ミシンのこれだけ一般化したなかでは踏む、がないと足踏みペダルを踏んで縫っている情景を想起しづらいなとも思います。電動ペダルをちょい踏みしてすごいゆっくり縫っているときもブウウウンと低い音がしてかなり静かですし。他方でそこは読み手に投げちゃっても間違いではないような気がします。たとえば「踏む」がなくていいなら「湯気立てゝ母はひそひそミシン踏む」をちょっとだけ変えて「湯気立てゝ母はミシンをひそひそと」とかも一案かな(縫っているし、たぶん足踏みなんだろうなと類推して頂く)と思いました。
ただ、ここまで考えて、やっぱり「ひそひそ踏んでいるその様子」を特に見せたければそう言って動詞に効いてもらうしかないよなと思い、
最終的には
湯気立てゝ母のひそひそ踏むミシン(ミシン着地)
を推させていただきます。ひそひそミシン踏むのほうが口に出して読みやすいなと思わなくもないのですが、2音節ずつのあたまがh.h.h.と続いてなんとなくそっちの方が面白いしミシンのリズムを連想するなあというのがその理由です。ただ着地ミシンなので、母の気配がする‥たぶんだけど‥ああ(やっぱり)ミシンか、という一句の中での展開をどことなく暗示させそうなのを了とするかしないかでしょうかね。
あとは別案 湯気立てゝ母ミシン踏むひそひそと とも思いましたが、なんとなく助詞が抜けてごたつく印象があるなと思いました。
いつも俳句詠んでいて思うのは、最初に言いたかったことと、どうすると俳句にまとまるかと、俳句の生理学や解剖学がそこはかとなく暗示させてしまう展開のようなものがどうなっているかが全部違って非常に悩ましいなぁ…ということです。
あまり解決にもならず、かつすごく長くなってすみません。
添削のお礼として、番人さんの俳句の感想を書いてください >>
湯気立てゝ母はひそひそミシン踏む(切れなし)
湯気立てゝ母のひそひそ踏むミシン(ミシン着地)
湯気立や母のミシンのひそかなる(踏むなし)
湯気立や母のひそやかなるミシン(踏むなしミシン着地)
湯気立やミシンの音のひそかなる(母も消す)
母がよく使ってた足踏みミシン。いつもひそひそやってて私はなんだか好きだった。
いろんな形があるのだけど、叙述の形で「踏む」の着地が好きだなあと思ったんですが、散文感あるよなあ。推敲のなかで一番いい形って悩むなあ。
みなさんご意見よろしくお願いします。