「花野へといそぐ花野にまにあふやう」の批評
以前イサクさんが「花野といえば高原にある広い場所のイメージ」というようなことをどなたかのコメントに残していたと思うので、そのイメージで読みました。
「いそぐ」「まにあふやう」は、詠み手の思い描く花野、理想としている花野のイメージに向かう思いなのかなと思いました。時期、時間帯、天候のほか、ほかの観光客に入り込んでほしくない、自分だけで静かにあの花野を満喫したい、というような。そこが大好きな大切な場所であり、花野への思い入れが感じられる句だなあと思いました。
一点だけ質問です。
この句では花野に詠み手はいないと思うのですが、季語
としてありですか?
というのは自分でも「花野に行く」という句を作ろうとして、あれ?これから行くなら花野は目の前にないし季語としてダメなんだっけ…?と思ったことがあり。
あっ、つまりこれは「敢えて」ってことですか?目の前になくても花野への強い思いはすごく感じますし。
頓珍漢な質問ならごめんなさい。
「花野道…」の添削
ありがとうございました。
両脇に花が咲き乱れる道をわーっと通り抜けていくイメージで「びゆんびゆん」だったのですが、あくまで思い出の中のイメージだけで詠んでいたかもしれません。
いつもズバッと指摘してくださりありがとうございます。季語が、季語が、と毎回のように指摘していただいているのになかなかうまくいかず。勉強になります!と言いつつ全然身についてないですね…。
なかなか成長できていませんが、引き続きよろしくお願いいたします。
添削のお礼として、はやさんの俳句の感想を書いてください >>
二重投句の心配がなくなったので蔵出しで兼題。