「長閑けしや桜と桃の花に蜂」の批評
いえいえ、あまり突っ込んだ話を人とすることもないので、むしろお付き合いいただきありがとうございます。たまには意見を戦わせてみましょうか。
少し誤解を解いておきたいのですが、私が言った評価というのは点数付けという意味ではなく、フィードバックを多分に含む概念です。良い・悪いもフィードバックですからそれを点数付けと言われればそうですが、0点!100点!60点!なんて付け方をする人はあんまりここにはいません。なんとなくの印象をなんとなく言語化するのは、一応フィードバックと言ってよいと思っています。
作品自体への読みの提示はしておりまして、「ひとつひとつ説明されているように感じた」ということです。また、みつかづさんにとっては「あんまり自分の狙いが伝わらなかったな」というフィードバックにもなっているのではないでしょうか。もちろん、一般的な俳句
の読み方をしたからこう感じるのであって、なにか別の読み方のプロトコルに則れば違う景色が見えるのかもしれませんが、それは私にはインストールされていませんし、する機会も転がっていませんでした。
初歩的な読み方というのは、たとえば切れと取り合わせのようなレベルの話です。「区別を持ち出すことは、鑑賞者の発展の可能性を狭める」ということ、私も考えたことがあるのでお気持ちはよくわかります。見て分からない文なんて文ではないだろうと思った時期があります。ただ現実問題、たとえば「金色の仏ぞおはす蕨かな」を「蕨に仏がいる」と読んでしまったり(これは昔の私ですが)、極論「や」の意味を知らなければ「花散るや屋根職人の大笑ひ」を「花が散ったり、屋根職人の大笑い」と読んでしまうとか、そういうことが起こり得てしまうジャンルだと思うんです。多少の約束ごとを知ったうえで鑑賞しないと意図を汲み取れないという制約が、現実問題としてある。ここを表現者としてどう扱うかですよね。
ただ作品をぽんと置いて、何も知らない人に「読んで」と言って突きつけるのは、若干この、伝える努力の適用範囲内ではないかと最近思うんですよ。極端な話、自分が開発した人工言語で俳句を作るようなもので。作者にはわかるし、芸術作品としては面白いけれど、読み手には伝わらない。みつかづさんの句も私にとってはそれで、みつかづさんの要求する読み方が私の中にないので読み取れない、よって作品世界を探索することが難しいんです。
ここで作者が取れる手は2つあり、ひとつは読み手にわかる形に噛み砕くことですよね。でもこれはみつかづさんは選ばない。それでよい、というのであれば言うことはありません。ただそれは文芸というより芸術の文脈だという気がします。人に読んで解釈してもらうことをそもそも想定しているのか。どのへんの、どのくらいの人に届かせたいのか。
おそらく、現代の俳句のシーン、このサイトのメンバーの傾向を認識したうえで、あえてそれを出す姿勢を含めての作品なのでしょうけれども、そこまで認識して評価するからこそ言わせていただければ、出す場が違う、もったいなくないか、と言うフィードバックをさせていただいたわけです。思っただけです、投稿することはもちろん構いません。もっとこう俳壇のトップあたりに突きつけるべき姿勢であって、俳句道場でこれを「磨く」のは難しく、磨くとするなら、場そのものではないか、というのが私の初見の感想だったわけです。感想であって、投稿するなというわけではありません。ややこしいですが伝わりますでしょうか?
観念的・実験的な句を投句してはならないわけではない、ということは先のコメントで明言しております。句風を取り締まったつもりなど一切ありません。ただその実験句の中でも特にみつかづさんの考え方が知りたくて、率直なコメント(フィードバック)をぶつけさせていただいたのであり、それこそがこの道場の意義ではないか?と私は考えています。
長くなりましたが、きっと「一読で理解されるのが良い俳句だ」という概念に向けてのアンチテーゼなのでしょう(言い過ぎでしょうか?)そこまで自覚されているのであれば、本当に特に何も言うことはありません。それを阻害したら俳句の発展はないですからね。ただ一読者として、今回は刺さらなかったなぁ……という素直な感想を置くのみです。この手法でおおっと思うものができたら、それこそブレイクスルーでしょう。迎合など不要、お互いに良いと思うところを吸収できれば、それでよいと思っています。
実際、このへん最近色々と思うところがあったのですよね。もしみつかづさんも自論などあれば、せっかくなので伺いたいです。