「ここにいる皆が幸せであるよう」の批評
回答者 感じ
添削した俳句: ここにいる皆が幸せであるよう
こんばんは🌆
御句、そのままいただきます。
さて、私はこの道場に向いている、、
そう、かもしれません。
たしか、ここにお世話になったのは、去年の11月ぐらいでしょうか。
おそるおそる、置いた句が以下です。
「香もよくて妻にも勧む卵酒」
「も」が二つ!
早速、「ある方」から厳しい指摘。
こともあろうに、食ってかかった気が、、(笑う)
それから、投句して、「ありがたいことに」、先輩諸氏、および「ある方」から毎度、手厳しい指導です。
とくによく指摘される「散文的」の意味が分からず。
私は、「自分で」ネットで調べたり、入門書を読みました。
そして、はっきりとした「散文的」の定義は分かりませんでしたが、なんか「散文的」の「感じ」は分かりました。
そうして、「散文的である」との指摘は減っていきました。
それはさておき、私は夜型であり、夜中あたりに添削のついていない句がそこそこありましたが、翌朝全てに「コメント数1」となっておりました。
「その方」の労力、かなりのものであったでしょう。
そして、私はいま、その時よりは多少「俳句」が作れるようにはなっていると感じています。でも、いまだに、「散文的」な「俳句」をつくることもあるでしょう。
そして、私は「この道場に向いているのではなく」
私は「いさせてもらっているのです、みずから志願して」。「その方」がいる限りです。
さらに、「評」「添削」というものは「主観そのもの」であり、各人、何が、どこが、良いのかは、バラバラです。「論理、理性」と「美的評価」とは元来相反するものです。そういう元で私たちは、「評」「添削」をおこなっており、つねに「主観」と「客観」に悩んでいると思います。
理解し難い「評」をもらったときには、とりあえずは考えますが、「そっと」その「評」は脇に置いとくしかありません。
あっ、喉が渇きました^_^
水飲んできます。^_^
よろしくお願いします。
点数: 5