「佇むや芒の茂る廃線路」の批評
こんにちは。
いつも勉強させていただいています!
ありがとうございます!!肋骨と胸骨がちがう場所とは!ご指摘ありがたいです!
御句。少し作句についての話になります。長ければ読み流してください。
佇むや、というかたちは色々指摘はあるかもですが、このかたちの句はないわけではありません。
佇むや吾も色なき風の中/小川恵
一方、実景だと思うので、あれですが、廃線、佇む、芒のチョイスは雰囲気が出やすいワードが並んでしまった感があります。
廃線路というさびしげな場所に芒の中というさびしげな季語がつきすぎているように感じます。そこに動詞が「や」で強調されて、佇んでいるぞ!すすきの茂る廃線路のなかで。となると、これでもか、と重ねているような感じです。
読者にすこしのおどろき!こうくると思ったら予定調和とは違う何かが来た!というものを与えられるとよいなと思うんです。だから細部の描写としきりにいわれるんだと思います。
句材を変えずに話すとして、添削ではなく作句の考えとしての一意見です。
廃線の鉄路〇〇〇〇夕すすき
たとえばこういう形。
線路のどういう様子に感慨を持ったのか。
廃線の鉄路まつすぐ夕すすき
とかであれば、廃線になってもなおもまっすぐつきすすんでる感じに心が動かされてる。
廃線の鉄路曲がりて夕すすき
とかであれば、逆にカーブしていく視点とともに列車が走ってたころの軋む音が想起されて、想像に時間軸が出ます。
廃線の鉄路に起伏夕すすき
とかであれば、平坦と思ってみたものに微かな起伏があり、しずけさの中に少しのうねりを感じる。
夕すすき、という選択は、夕景もベタベタすぎるという指摘があると思いますが、三音季語なので、夕、と時間情報を補足したり、大すすき、とか、すすき原、とか広がりや空間を出して見たり、二音でやれますよ、という意味です。
そして、いずれの選択にしても、やはり作中主体は佇んでるんじゃないかなあ、と想像できるので、佇むや、ときて、やっぱり佇んでいるよね!と思ってた通りの展開が来る感じです。
たとえば、極端な例ですが、
疾走や芒の茂る廃線路
目覚むれば芒の茂る廃線路
とかなら、なぜ走るのか、なぜ廃駅で眠ってたのかという想像が始まって、予定通りにならない、置く意味が出てきます。
わたしごときがなんだかんだ書きましてすいません。的外れなら流してくださいね。句作論ばかり話してあれですけどね。でも添削という力がなかなか3年目のわたしに持てるものでもないので、鑑賞したりこういう詠みかた考う方をしてると共有しあったり、そこに道場の新たな価値もあるように思います。
細部の描写やささやかな発見こそ、読み手のこころにすこしだけ波紋を立たせられると思って日々モノを見ています。
わたしもなかなかできなくて悩んでるのですが、あと一歩細部に寄る、というのが、ポイントかもしれません。
また、話せたらよいですね!お邪魔しました。