「手拭いの農婦草刈る花野かな」の批評
こんばんわ
言うか言わぬかずっと迷っていたのですが、このままだと僕自身がもやもやするので言います。
こま爺さんは、頭で作句されてませんか?いやもちろん頭で作るんですが、なんというか作者の実感のようなものが句やリズムから感じられないことが多いんですよね。
作者の実感の描写によって詩って生まれると思うのです。なにも見たことだけしか詠むなと言っているのではなく、想像でも空想でもそこにありありと感じたものを描写できているか。
いろいろ初心者向けの指南はたくさんあるけど、それを回避すればいいというものではなく、あくまで失敗しやすいというだけ。
御句も季語に向き合ってない(脳内や映像であっても)ように思えてならないのです。なんとなく草花が生えた野のイメージから田舎の光景を思っただけといいますか。だれもあとのつけていない原野に咲く花野の光景ではないような。
この句の主役は花野ではなく、手ぬぐいの農夫になっていると思います。それは技術的にかなをつければそれが主役になるという単純な話ではなくて、句から読み取れる感慨が、そこなので。
偉そうにすみません。俳句を理屈や技術だけで取り組んでたらもったいないなぁという余計なおせっかいでした。