「丸き背の母のミシンや春の音」の批評
めいさん。こんにちは。貴句、拝読いたしました。
悪くないと私めは思います。ですので、添削
提案はいたしません。
ただ、過去の俳人巨匠達(芭蕉、蕪村、一茶、子規など)なら
以下の様に仰るかもしれません。
「めいさん。ミシンの針が布を叩く音そのものを描いては如何でしょう?
針が布を噛む音、糸車が回る摩擦、それらが生々しく響いてこそ、
春の鼓動が聞こえるのではないでしょうか? 季語
に頼り過ぎて、
耳を塞いでいませんか?」
「丸き背(せなか)、良いですね。ですが、その背中に差す『春の光』は
どう動いていますか? ミシンの光沢と、母の白い指。
色彩を動かさねば、音は死んでしまいませんか?」と。
「めいさん。新しい服、楽しみだったですよね。ですが、ミシンの音に混じって、
雀の鳴き声や、遠くの物売りの声は聞こえませんでしたか?
春の音をミシン一つに閉じ込めてしまうのは、勿体無いかもしれませんよ」等と。
次に拙句、「曲水や来し盃も泡一つ」にコメント、ありがとうございます。
https://weblike-tennsaku.ssl-lolipop.jp/haiku/corrections/view/33975
ご質問にお答えいたしますね。
結論から述べますと、切れの位置が上五の季語の直後、
且つ助詞が「も」でないと、句全体が死んでしまいます。
何故か?
「曲水の宴」の場をご想像ください。そこには2種類の「液体」があります。
外の流れ: 庭園を巡る「水」
内の流れ: 盃に注がれた「酒」
どちらも液体で、物理的に「泡」が発生し得ます。
水面に浮かぶいくつかの泡(汚れや現世の喧騒)だけじゃなく、
今、自分が持っている盃の中の酒にも逃れられない「泡(穢れや宿命)」が
宿っているという、視線の連鎖(包含)を表現する為の「も」でして、
広大な庭園の景から自分の指先の極小の景へと、読者の視線を瞬時にズームさせる
「レンズ」の役割を果たしているのです。
また、「曲水」と「盃」の同一フレームの詠嘆ですと、視線が盃に張り付いちゃって
動かないですよね。そこに「泡一つ」と着地させても、
「何で突然ここで泡の提示? 泡である必然性は?」となっちゃう訳です。
「曲水や(大景の詠嘆)」→「来し盃(動)」
→「も(接続・連動)」→「泡一つ(極小の真実)」という、
ダイナミックなカット割り構成にいたしました。
この順序だからこそ、1粒の泡に全宇宙の重みが17音にパッキングされる作りな
訳です。詠嘆であればどこでも良い訳ではなかったんですよ、はい。
ご参考いただければ幸いです。
最後に、私めに「様付け」はできればお止めいただきたいです。
何故なら私めは偉くも何ともない、ただの1俳人ですので。
以上でございます。お目通しいただき、感謝いたします。
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毎年、春になると、母は、新しい服を作ってくれました。出来上がるのが楽しみでワクワクしました。
よろしくお願いいたします。