「半眼の野良猫と吾冬日向」の批評
回答者 イサク
再訪しますね。
どんな句であろうが鑑賞は鑑賞側に託されています。
好意的に読んで終わらせることはできますし、「そのままでいい」と言うのだけなら簡単です。
その中で、このサイトでは「アラ探し」しない範囲で「どこを変えると良くなるか(作者の思う句意が出やすい、誤読がなくなる、意味が通じる、言い過ぎがなくなる、など)をいつも考えています。
100点の句でなければ、どこかに良くなる要素が眠っています。そういう句に対して「そのままでいい」とは私は軽々に言えません。「これ以上推敲しなくていい」と作者でない人間が言っているようなものですから。師匠でもないですし、考えた上で「推敲ポイントが思いつかない」ときだけ言うようにしています。
(過去のコメントで、そう取れない「そのままでいい」があるかもしれません。私も人間なので少しずつ考え方や俳句の能力も変わっているので、過去のコメントを持ち出してこられると困ります。こういう断りを入れないと、年単位で昔のコメントを持ち出して「ブレている」とか言う人がいますので・・)
今回は句形で「吾」(作中主体)が半眼かそうでないか迷う形でしたが、「半眼」と受け取る方が本命でした。そして、私の受け取りどおり、作者コメントに「わたしも猫をまねして半眼で」と明記されております。なので、この形は回避した方がいいなあ、とコメントいたしております。
一音変えるだけでも印象が変わりそうですし(どこかはナイショ)、推敲ポイントはまだまだありそうです。それは句の伸びしろです。
という意味で「そのままでいい」とは思いませんでした。
なお、「猫をまねて自分が半眼をした」という内容そのものは俳句になると思っています。最終着地点は作者さんに考えてほしいと思い、提案は控えています。
長文失礼しました。
点数: 3
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ひだまりの縁側、野良猫が静かにすわっています。
私も縁側の端に「す〜〜と」腰掛けました。いつもは「さ〜〜」と
いなくなる猫が、半眼のまま居座っています。
わたしも猫をまねして半眼で庭を「ぼ〜〜」としました。