「神のゐて仏になりし登山かな」の批評
回答者 みつかづ
初めまして。こんばんは。貴句、拝読しました。
俳句における「文法的整合性」、「論理構造」、「詩情」、「思想性の限界」が
交錯する、非常に興味深い句と議論かと、私は考えました。
私も一応なおさん、独楽さんの意見に一票です。
(お2人とも、あまり私の句に触れていただけないので寂しく思っておりますが)
ただ、私の意見は決して句の良し悪しの言及ではない事、お含みおきください。
何故なら、ここは『添削道場』ですので。
句の字面と作者コメントを見比べて、
言葉が足りていなければ「添」え、多ければ「削」る。
その際、作者に心を寄り「添」えて、我欲は「削」ぐ。
それが「添削」ですので、句の良し悪しの判断は必要無いですし、少なくとも
私はジャッジいたしません。あくまでも、句の字面と作者コメントとの
乖離を縮める、埋めるのが添削の意義ですので。
その上で改めて貴句を拝読いたしますと、上五が「神のゐて」ですので、
何等かの神様が山にいらっしゃるのでしょうね。山そのものへの信仰心も
あるのかもしれません。私は信仰心を一切持たないのでその気持ちは
よく分かりませんが。
ですが、中七の「仏になりし」。
これで作者コメントの「その山に登って命を落とす」に辿り着けるかと
言われますと、正直読者は辿り着けないのではないかと、私は考えます。
「悟りを啓く事の例え?」の疑問なら私は浮かびましたが。
また、下五の着地で詠嘆なさっておいでですから、中七の過去の助動詞「き」の
連体形「し」で、季語「登山」との時制がいつなのかよく分からないという
構造上の問題もあるのではないか、と考えた次第です。
この世の不条理を詠むのであれば、現在形になるでしょうから。
問題点と考えられるところを改めて整理いたします。
①主語の転換
内容:「神」→「仏」→「誰が?」が不明瞭
問題点:読み手が主語の混乱に陥る可能性が極めて高い
②過去の助動詞「き」の連体形「し」
内容:「誰が仏になったの?」が焦点になる
問題点:「神が仏になった」との誤読リスクが大きい
③季語「登山」
内容:季語までの論理展開との繋がりが希薄
問題点:物理行為(登山)と抽象観念(死・神仏)の接続が唐突
④「かな」による詠嘆
内容:上記までを受けて、句末での詠嘆が、上記の曖昧な論理構造を
さらに混乱させる
問題点:「余韻」ではなく「意味の飛躍」になってしまっている
客観写生を乗り越えて、唯物弁証法で感情そのものを唯物視する場合、
感情を俳句に詠み込むのも無くはないと私は思いますし、現に私は乗り越えようと
しておりますが、俳句は「季語を伴う短詩」ですので、詩情の表現になるか、
他者からの共感を得られるかどうかはまた別の事ですので、
その辺りの折り合いをどの様に付けていくかは、
テーマによっては難しいところではないかと私は考えております。
添削例を挙げるとなると難しいですが、以下が考えられます。
詩情に乏しいのは、句跨りになってしまうのはご容赦ください。
A:登山道神に詣でむとして絶ゆ(叙情的)
B:登山道神に参らむとして果つ(叙実的)
動詞「果つ」は動詞「死ぬ」の婉曲で、他には古語では「失(う)す」、
「まかる」、「みまかる」、「なくなる」、「絶ゆ」、「消ゆ」、
「隠る」、「雲隠る」等があります。
ただ、それらの動詞で「登山中の死」を表現したとしても、不条理にまで読者が
辿り着けるかどうかは正直分からないというのが、率直な私の意見です。
以上、ご参考までに。
ご覧いただき、ありがとうございました。
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はじめまして。
俳句を初めて作ろうと思い、お題の「登山」で詠んでみました。
山に対する信仰心と、その山に登って命を落とす不条理を詠んだつもりですが伝わりますでしょうか?
よろしくお願いいたします。