「初雷や出自を問わぬ触れ太鼓」の批評
田上大輔さま、こんばんは。
初雷が生命活動の号砲、なるほどいい視点ですね!勉強になります。
気になった点としては、イサク様のコメントの②④の部分を強く感じました。 つまり、コメント無しでは「触れ太鼓」や「出自」が比喩だとはわからなかったです…。
「初雷が鳴っている中、触れ太鼓が街を練り歩いている。出自を問わず、外国人なども太鼓を叩いているよ」という句かと思いました。そう鑑賞した場合、句として成立している感じがします。
(ちょっと相撲に詳しくなくて…雷でも触れ太鼓の練り歩きを行うのかとか、外国人でも呼子になれるのかとか、その辺は知らないのですが)
提案句はイサク様に1票とさせてくださいm(__)m
P.S.
「季語
の説明をするな」は、よく言われますね。誰もが通る道かと思います(もちろん私も、幾度となく…)。
季語には日本の文化・気候・歴史の中で築き上げられてきたイメージ(季語の本意とか、季語の力とか呼んだりします)がありますので、その季語を見れば多くの人はいろんな想像をしてくれます。その季語の力を信じて句を詠もう、ということですね。
例えば「秋の雨」と言われれば多くの人は、長く降りつづく雨、、寂しさーーといったイメージを持ちます。それが季語の本意であり、わざわざ説明する必要のない情報です。
なので、仮に「秋雨の降りつづきたる~」とか「寂しき秋の雨」なんて句を詠むと「季語の説明になってるよ!」と指摘されたりします。
歳時記
をお持ちでしたら、作句の際には季語の本意を歳時記で確認するといいと思います(私はそうしてます)。
「季語の力を信じる(=季語の説明をしない=季語から伝わるイメージをわざわざ書かない)」というのは覚えておいて損はないと思います!
添削のお礼として、慈雨さんの俳句の感想を書いてください >>
初雷は大自然の号砲のように感じます。「春が来たぞ!活動せよ」といっているようです。虫も鳥も獣も人間も関係なく。