「ゆふがたの刈田に鷺の二羽三羽」の批評
回答者 頓
こま爺様、お早うございます。頓、再訪です。早速にて…。
お示しのサイト、確認致しました。どの句も己の感情を隠さずして、措辞の並べ変えと季語に合うような楚辞を取って付けているだけのようにしか感じられません…。「子規先生の教えと限りなく実体に迫った」ことを示す痕跡は一句足りとも見いだせません。これはどうしたこと何でしょうや?これら啓示・教えは、以前申し上げた「瓦礫こそが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である」との高村光太郎先生の名言と相通ずることを申し上げましたが、一句足りとも見出せません。己が感情は顕ですし、例えば「孤独」という言葉、これは完璧に感情の発露では無いでしょうか。そのよう句を投句した途端、「因果・説明」「季語の力を信ぜよ」といった批判に晒される…。主役の季語を置き、その季語を何故置いたのかを「説明」せずして、どうして季語を立たせられましょうか?
この矛盾した、言い換えるならば、因果、説明・報告に陥らないようにする為に、実体・実景からは乖離して、己の感情と動作を一見秩序あるが如くに並べている欺瞞…本サイトとて、かような句で溢れかえっているようにしか、手前には感じられません…。
本文を打ち出したのが午前三時でしたが、正にこういうを苦吟の夜というのでしようか?
口説いてですが、実体・実景・写実に忠実になればなるほどに因果、報告・説明(的)になってしまう、しかも己の感情は限りなく排除すること、この矛盾から如何に脱却出来るのかは、畢竟、経験を積むという所謂王道しか無いのでしょうなぁ…どんな世界でも、分野でもそうですから…。
正直、家内も手前も病床にあり、実生活はそれどころでは無いのですが…。
支離滅裂な内容をお送りして、申し訳ございませんでした。もう、午前四時を過ぎてしまいました。失礼致しましたm(_ _)m。
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久しぶりに農道を散歩してのことです。