「青空の差し色なるや木守柿」の批評
回答者 げばげば
こんにちは。
再訪です。
俳句は断定すべきだという私の言い切りに語弊があってはいけないので、再訪ですが、疑問形の秀句もいっぱいあります。が、私的にはむしろウルトラCです。
俳句で虚の世界を詠もうとするときに疑問でいくより断定する方が詩になりやすいというときが多いです。
自句の例で恐縮ですが、
今月一句一遊で金曜日をいただいた
母はいま雨滴となりぬ残り菊/げばげば
これは、
母はいま雨滴となるや残り菊
母はいま雨滴となるか残り菊
として、母はいま雨の滴として降ったのだろうか?と疑問にしてしまうよりも
「降り出しの雨。ああ、母はいま雨の滴となって降ってきたのだ。亡くなった母はいま雨の滴となって降り、残菊に降り注ぎ、残された命たちにやさしく注いでくれているのだ」とあえて虚の世界を断定してしまう方が詩があるように思うので、私は断定を選びました。
もちろん「疑問」にすることによる秀句もいっぱいありますが、そちらの方が高度のように思います。
蝶ふれしところよりわれくづるるか/高柳克弘
蝶が触れたところから私は崩れていくようであるか。と虚の世界を疑問のままに投げかけたことで、壊れてしまいそうな自我の危うさを詠んでいます。
むしろこういう疑問のままの秀句はハイレベルな気がしたりします。好き句をいろいろ置いて去ります。
幽霊も鬱なるか傘さして立つ/高柳重信
鶏抱けば少し飛べるか夜の崖/安井浩司
点数: 3
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いつもお世話になります。
「木守柿」と言う季語を教えて頂き何とか詠んでみたいと考えました。
青空に葉も落ち橙色のみになった柿
鳥たちも見つけやすくなったでしょうか?
宜しくお願い致します。