「若き日の父母の座す花野かな」の批評
こんにちは。
いつも温かいコメントありがとうございます。
花瓶の句コメントありがとうございます。
私も小学校のころでしたが、数日前まで元気だった子だったので不思議で、、こういう時も実際は雨が降るわけでもなく、風が強いわけでもないのがリアルな世界なんだなと。それを届ける技術は不足していました。うまく対比も作れず、ただただすがすがしく思ってる人みたいになってましたねー、、。
机の上の花瓶は席替えまでおかれ続けたのですが、その後花瓶に花がなくなったときと晩秋を合わせるイサクさんの提案句、これまた味わい深かったです。
さて、御句、初読は、若い頃お父様お母様の写真がいつもアルバムにか部屋にか飾られていて、お父様お母様ご夫婦で登山かハイキングに行かれたような、ふたりで笑顔で座っている花野の写真。
そして、登山好きのなおじいさんが花野に行ったとき(父母と同じ花野かはさておき)、そこに、お父様お母様のようなものが現れたのか、目に浮かんだのか、そんなことを思わせるような花野だったという受け取り方でした。コメントを読むと、迷い道を助けてくける方が実はお父様お母様なのではないか、という句意ですね。味わい深いーー。私の初読で取っても十分ぐっと来たんですけど。
やはり花野ってそういう幽玄なもののように感じたりはします。でも、やはりどちらにしろ、幽玄な花野を妄想で詠んでも、なおじいさんのお父様お母様はやさしくてあたたかい存在で。その発想がなおじいさんのワールドなんだなー、なおじいさんがそれを詠むから響くわけで、知世さんがあのワールドを詠むから響くわけで、だから面白いよなーって思ったりしますね(*'▽')
中七は座っているという意味の「座す」が文語だと終止形で切れになってくるかもなので、「座する」かもしれませんね。そこの文法ちょっと自信なし。
若き日の父母座する花野かな
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こんにちは。前句「小山なる古墳今年も秋の色」に多くのコメント・提案句を有難うございました。
本句は、兼題の「花野」を、少し妄想を働かせて詠んでみました。
方向音痴のくせに山を歩く私は、よく道に迷います。あたりには誰もいない。困っていると、なぜかどこからか爺さんか婆さんが不意に出てくる。思わず道を聞く。親切に教えてくれる。助かった。お礼を告げて歩き始める。「しかしこんなところに、うまく通りかかってくれたなあ…」と思って振り返ると、もう誰もいない。
これはマジな話で、一度や二度ではないのです(それだけ私が迷いやすいということ)。
おそらく、花野でも迷うでしょう。二人はそれを待ってくれているのか?
当然、「若き日の両親が座っている」などは現実にはあり得ないので、この点は空想・妄想であり、自然描写ではありません。こういうのは許容されませんでしょうか。
ご意見よろしくお願いします。