「霊峰の左右に日月八月尽」の批評
回答者 イサク
おはようございます。
「左右」という単語がまさに「一枚の絵か写真」ですね。
現実に霊峰(コメントどおり富士山)を見た時、その視界の中に太陽と月が同時に入ってくる(つまり「昼の月」)、それもほぼ均等に左右に分かれている、という情景がどうも想像しづらく・・・
もしや自分が山にいますか?とも思いましたが「霊峰の左右」という位置関係がおかしいですね・・・
「絵」や「写真」から発想を得て作句するというのは多いと思いますが、単なる描写では「絵」や「写真」にはかないませんし、俳句という文化は「説明文」には向いていないと思います。
何のために俳句として仕立てたのか?ということだと思います。
そして季語までたどり着けず・・・季語の件はなおじい様と同意、かな・・・
ちなみに「富士参詣曼荼羅図」これですか?
点数: 1
添削のお礼として、イサクさんの俳句の感想を書いてください >>
絵を見て作った句。画名は忘れましたが、富士山修験道のです。「日月」は"ひつき"と読んで下さい。
登山シーズンも終わりですね。
あの絵は、何か心そそられます。