「しゃがみこみ二人あやとり秋麗」の批評
こんにちは。
いつも勉強させていただいています。
御句、良い句ですねー。秋麗の素敵な空気感を生かして、外でのあやとりを合わせてきた。光景が浮かびますが、ゆったりした時間が流れていていいなああと思います(*'▽')三段切れか?と思いましたがぷつぷつ感はなかったですね。
説明的ってどういうこと?って駆け出しの私にもまだまだ難しい。
私が気を付けていることを書いてみます。
秋麗にしやがみて二人あやとりす
たとえばこんなんだと、「秋麗にしゃがんで二人があやとりしてますよー」という報告文ぽくなるというのがまず一つ。それを解消するために、はやさんはもうすでに語順とかをいじるということをやっているんだと思います。
「励む」とか「夢中」とかが説明かっていうのは微妙なところ。今回で言うと、あやとりをしていない客観的なはやさんが見てわかることかということが説明的かどうかの分け目のような気もする。
たとえば、先月「炎天や廃車の砂埃微か」という拙句に対してイサクさんからいただいた指摘に、
「廃車」というのは車の情報でなく描写ではない。車の持ち主でないげばには、それが廃車なのか放置車両なのかはわからない、じゃあなぜ廃車と思うのかを見た描写にしよう!と言っていただいて、「廃車」が「朽ちた車」に添削されてたんです。これ、すごく腑に落ちた瞬間でした。たしかに客観的に見た描写であることがわかりましたから。
そういう意味では、「励み」「夢中」はあやとりしてる本人にしかわからないかというとグレーではありますが、いけそうじゃないですか?周りから見ても励んでるってわかりそうだし。
「楽しんで二人あやとり」とかになるともうアウトでしょうね。「楽しんでるかどうかは見てわからんから、それを「楽しむ」と書かずに描写せー、ということになります。
ただ、「しゃがみこむ」という動作が「励む」「夢中」の力を持っている気がするので、足さなくてもよかったとは思います。こういう意味的な重複も省いていく。
これまた拙句に「タクシーの帰路の車窓を夏灯し」というのがありまして、
これ、タクシーなんだから、「車窓」じゃなくて「窓」でよくない。夏灯しが夜なら、まあ「帰路」って言わなくても、むしろ「往路」なら言わなくちゃいけないけど、「帰路」ならいらなくない?と「タクシーの窓」まで省けたんですよ。11音が7音になってあと4音も使えることになっちゃいました。こういうのが意味の重なりを省くということですかね。
こんなこと書いている私にとっても手探りで、みなさんに、まだこれは説明だぞって教えられながら一つずつ吸収なのです(*'▽')でも、同じことを悩んでいたから伝えられることもあると思ってこうやって生意気にもいろいろ書いています(*'▽')専門的な理論まで私は到達していないので、他の方の意見も知りたいですね。
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外であやとりをしている子どもたち。気持ちいい天気だしあやとりするにも外がいいんだろうな、という句にしてみました。
「励むあやとり」にして熱中してる様子を描きたかったのですが、説明的になるのかなと変更しました。何が説明的なのかがまだよく理解できてない自分です…。