「冬の朝諦観の目の父立てず」の批評
回答者 番人
添削した俳句: 冬の朝諦観の目の父立てず
はじめまして。転倒してしまったのでしょうか、それとも座っているところや寝ているところから痛みや筋力の問題で立ち上がれない、ということでしょうか。あるいは進行する疾患を持っていて消耗が進んできているのでしょうか。
高齢者が衰えていく様をみるのは誰であっても切ないものだと思います。ましてお父様ならなおそうでしょう。
さて、添削というよりは私ならどう詠むかなぁみたいな話をしますと、他の方も言っておられるように、"冬の朝諦観の目の父立てず"から平叙文らしさを抜いて映像をどう立たせるかということになるかと思います。
季語は冬の朝ということですが、立てなくなったのが朝だったのでそのまま詠まれたということだとしたら、もし「父が起き上がれない」を主題とするのであれば、あるいは句の中に朝という時刻をあえて詠む必然性はないかもしれません。朝であることを示す理由がおありでしたら冬の朝でよいと思いますが、冬の朝という季語について、寒さが残っているし薄暗いし昨晩一晩で雪が積もっていることだってあるが、朝なのでやはり明けてはいくわけで、季語自体の意味合いと、お父様が立てなくなってきているということとが響き合っているかどうかは検討の余地があるかもしれません。
ごく単純に時候の厳しさをとって寒の入(1/6 小寒でしたね)とか厳寒とか、あとは例えば枯〇〇(総称して名の草枯る/名の木枯る、といい、〇〇には竜胆とか葛とか銀杏とか榎とか椚とか、なんでもいいのですが冬に枯れたり散ったりしてしまうような植物の名前が入ります。その植物がなんであるかによって、どんなお父様であるか、ご自身がどんな気持ちをお父様に抱いているかを暗示することができるかもしれません。単純に枯木とか枯草とかいう手もあります)とか、そのへんの工夫がもしできると詠みこめる詩情の量と質がきわめて大きく変わります。
よく夏井いつき先生などは季語と詠みたい事象の取り合わせを問題にするときに「近すぎず遠すぎず」、でも確かに感覚は通じるよなみたいなところを狙いにいくのがよいと仰るのですが、私はそれはまだとても苦手でして、まだまだ上記のような、相当に「近い」発想になってしまっています。
またお父様が立つのをあきらめたときの目に浮かんだ覚悟や諦めの色、ということでしたら、恐らく目を中心に体言止めするとか切れ字にするとか映像が浮かぶような書き方にするとよりよいのだろうと思います。
例えば今適当に考えてみると、
立つを諦むおやじ(あるいは乃父:だいふ)の目
立てぬおやじの眼(まなこ)かな
立たれぬ父の眼(まなこ)かな
立てぬ父の目に諦め(八・四となる破調、あるいは句跨り)
とかでしょうか。
ということで、あくまで、私だったら、というごく一例の句)
寒の入立てぬ親父の目の覚悟
枯榎立てない父の眼かな (まなこ。目に印象深さをおぼえていることはわかるが、どんな目かは読み手にゆだねている。「覚悟」を示したければ、立てない父の覚悟の目 など)
父の目に立てぬ諦め冬の朝
など。長くなってしまいましたがご参考に少しでもなれば幸いです。
点数: 1