俳句添削道場(投句と批評)
イサクさんのランク: 師匠2437段 合計点: 7,429

イサクさんの俳句添削依頼

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淀川を歩いて渡る秋の空

回答数 : 40

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人の句は人の子である時鳥

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手の甲にねぎの絵を描く二月尽

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征く雲の集める星や龍天に

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寒空の彼は飛行機か明星か

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イサクさんの添削

「水上の新緑に風ダムの朝」の批評

添削した俳句: 水上の新緑に風ダムの朝

こんにちは。

さわやかな光景ですね。
工夫をしたところのようですが、上五が省略可能に感じます。
中七下五「新緑に風ダムの朝」この措辞だけで、ダムの上を風が通っている映像が出ています。

と思ってコメントを見たら、

もしかして「ダムの水かさが増えて根元が水没した水没林・樹木」をお詠みでしょうか?
これを「水上の新緑」「水中の新緑」「水面の新緑」+「ダム」で理解させようというのは、さすがに言葉足らずな気がしています。

 水上の新緑・・ふつう新緑はダムの水面よりも上にあります
 水面の新緑・・ダムの水面に近い枝、あるいは水面に移った樹木を想像します
 水中の新緑・・水面に映った樹木?あるいは葉っぱまで水没してしまった樹木をストレートに表現した?あるいは水中で育つ藻類を「新緑」と見立てた?

という感想です。

「水没林」という単語が言葉の経済効率が高い(音数のわりにしっかりと風景が想像できる言葉)と思いますので、これを使って提案句とします。「水没林」を入れれば「ダム・湖」は言わなくても風景に出てくると思います。

・新緑の水没林や風の朝

点数: 2

「ふらここや中絶薬はしろじろと」の批評

添削した俳句: ふらここや中絶薬はしろじろと

再訪です。

N俳テキストの記事はまだ見ていませんが、俳句で「ウチソト」といえば、季語の「屋内屋外」のことが多いと思います。こちらのサイトでも何度か記述している話です。

根本的には、
★取り合わせの句で「季語」と「季語ではない部分」が、同時に感じられない(遠すぎる)場合、鑑賞が難しくなるという問題

というのをわかりやすくした一例が「ウチソト(屋内屋外)問題」です。
屋内の情景に屋外の季語、あるいは、屋外の情景に屋内の季語を付けると、映像が遠くなり(あるいは比喩っぽくなり)、鑑賞が難しくなる例があります。
適当に作ってみます。

・食卓の冷めたごはんや春の泥
・晴れた日の道路掃除や蜆汁

季語で、急に場面がワープしている気がしませんか?

(なお、時候季語には基本的にウチソト問題は発生せず、窓から見えそうな「月」「雲」「空」「日ざし」や、「雨」「雷」など室内にいても感じられる季語もウチソト問題を超えることが可能です)

御句は、基本的に屋外映像の季語「ふらここ」と、外に持ち出さない薬品の取り合わせなので、ウチソト問題が発生していると感じました。実際、薬品の方は「記憶」「検索画像」など、その場にはないことを想定していたようですね。

点数: 0

「新緑の山はモザイク丘の上」の批評

添削した俳句: 新緑の山はモザイク丘の上

おはようございます。

「新緑の山はモザイク」で、緑は一色ではなく様々な薄い緑、濃い緑、さまざまな緑がある山を思い浮かべました。
緑って200色あんねん、とか誰かが言いそう。

下五の「丘の上」が蛇足であるように感じます。
【山】なの?【丘】なの?ってなりました。
五音に困って、埋めたようにも見えます。
「丘の上から自分が眺めた」と言いたいなら、せっかく上五からゆっくりと山の風景を描写していたのに、下五で急に視線が移動して自分にスポットライトを当てるなんて・・という感じです。

下五を推敲すればそれなりの句になりそうですね。

点数: 0

「走り去る終バス遠き蛍かな」の批評

添削した俳句: 走り去る終バス遠き蛍かな

おはようございます。

御句、
意図的にやっていたとしたら、ベテランの作りです。

 遠山に日の当たりたる枯野かな/虚子
と同じ形です。
「走り去る終バス遠き」という中七までで意味は軽く切れますが、連体形で繋いで下五「蛍かな」へ余韻を続ける形。「遠き蛍」という意味も読者は含むことができます。

コメントを読まずに句だけを見た場合、成立しています。

コメントを見てしまったら残念な点が出てきますね。
季語が比喩で、実際には「蛍はそこにいない?」
 これはかなりの残念ポイントです。

点数: 1

「競馬好きこのダービー馬の父かな」の批評

添削した俳句: 競馬好きこのダービー馬の父かな

こんばんは。

説明が多くて苦しい句です。

季語を主役とせず、季語以外の部分の説明に使っていますね。
 そうすると、季語が「季語ではない部分の説明の【道具】」になってしまうので、季節感が出にくくなります。
◆「競馬好き」という自分(作中主体)の説明はしたくないところ。
 言わずに「競馬好きなのでは?」と思わせたいところです。
◆この句の「かな」は詠嘆ではなく疑問なのですかね?
 「父かな?」とつぶやいている感じですかね?
 あまり好ましい下五「かな」ではないですね。
 リズムを崩している効果もあまり感じません。むしろ「五七五に整えきれなかった句」のように感じています。

 そもそも競馬好きなら血統を知る・気にする・調べるのは当たり前、と私は思っています。私は特に競馬好きではありませんが、身近な競馬好きを知る限り、ほぼそうです。
 なので、この句は、「ダービー」など競馬用語を入れれば、それ以上は説明しなくていいことを、わざわざ説明している気がしてなりません。

それを前提で、元句の句意に近いように提案句をひとつ作ってみます。
季語を主役にするという意図を入れてみますが、

・東京優駿この馬はあの血統か

やはり近いですし、説明臭い気がします。

点数: 0

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