「豪商の私邸を飾る京鹿子」の批評
こんにちは。貴句、拝読しました。
中七の「飾る」。
別のフレーズ、例えばゆきえさんが仰った満開なども考えられますが、
ワザとそうなさらなかった理由は何か? と字面から私なりに考えてみました。
花言葉の「質素な美」、「密かな恋」、「努力」、「無益」、「儚さ」。
豪商の私邸(個人が所有している大きく立派な家。お邸)なので、無益とは
ある意味では矛盾しているのですが有益な面もありますし、
豪商になる為に努力とは密接な関りがあります。質素な美も在り得ますよね。
そして、「密やかな恋」だとすると、飾りたくもなりますよねという事ですよね。
なので、それを踏まえた動詞「飾る」だと寄り添うと、
句の字面と作者コメントの乖離が無いので、添削
の必要が無い事になります。
何でしょう。美しい反面何か良い意味でクスッと笑える句なのかと、
このまま味わいたいと私は思います。
次に拙句「雑踏に色幾つある日傘かも」にコメント、ありがとうございます。
https://weblike-tennsaku.ssl-lolipop.jp/haiku/corrections/view/31241
せっかくのご提案に沿えず申し訳ありませんが、意図がございます。
拙句の中七。
ここはワザと断定の形を避けました。
と申しますのは、句末の柔らかい詠嘆「かも」と相まって、
読者が「色幾つある?」と変換して解釈できる様な余地を残して、
私の内面の揺らぎの表現としてのフレーズにしたかったからなのです。
詠嘆の終助詞「かも」は俳人にはあまり馴染みの無い単語かもしれませんが、
有名な古歌には、例えば小倉百人一首の阿倍仲麿の短歌。
天の原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも
また、万葉集だと志貴皇子の短歌。
石走る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも
これが、いわゆる終助詞「かも」の詠嘆の例です。
この2つの短歌。同じ詠嘆でも「かな」に替えますと、違和感出ませんでしょうか?
終助詞「かも」は後の時代には終助詞「かな」に取って代わられましたが、
微妙に詠嘆を弱くしたくて、俳句
ですけど今回は「かも」を採用し、
中七も断定形を避けたという経緯です。
以上です。ご覧いただきありがとうございました。
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函館の豪商を詠みました。