「風邪に母ウイルス母はいないやう」の批評
こま爺さま、こんにちは。
御句、非常に面白い視点だとは思いました(私には思いつかない!)が、一方で強引な印象も受けました。
コメント無しでは「風邪(という病気)にも、ウイルスにも、母はいないようだ」という句意かと思いました。
〇「風邪」だけでは「風邪をひいた子」という意味にはならず、純粋に「病気としての風邪」として読まれると思います。
また、このままですと私が誤読したように「風邪にもウイルスにも母がいない」という意味にも見えます。逆説を使うならそれを明示する言葉は必須かと思いました。
〇「『ウイルス母』って何だろう、風邪の母がウイルスってこと?」と迷いました。
上五は「風邪に母」となっているのに、「ウイルス母」は助詞「に」が省略されていて統一感がなく、字余りを避けるための調整という感じが強く伝わってしまう気がします。
〇切れの位置がわかりにくく、「風邪に母ウイルス/母はいないやう」とも見えてしまいそうです。
そう読むと「風邪にはウイルスという母がいるが、私の母はいないようだ」という、コメントと真逆の句意にも見えそうです。
〇ご自身のコメントにあるように、ウイルスに母がいないのは当たり前なので「いないやう」と推測の表現にする必要性があるか気になりました。断定でいいのでは…?
〇あとは細かいですが、母の有無という普遍的な概念を述べた句なので、「冬に流行する風邪」という季語
としての季節感に乏しい感じがしました。
子どもが風邪をひいている、看病する母がいる、一方でウイルスには母がいない…ちょっと一句に盛り込むのは難しい気がします。
無理やりにでも17音にするなら、
・母の添ふ風邪の子独りのウイルス
とかでしょうかね…(9-8の破調です)。ウイルスが独りと言えるかどうかはさておき。。
あとはまあ、令和の時代ですので、「病気の子を看病するのは(父親ではなく)母親である」といったステレオタイプがにじみ出てしまうのは個人的にちょっと気になります。
長文失礼しましたm(__)m
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風邪の子を優しく看病する母はいるが、無生物のウイルスには母いない、当たりまえですが、改めて念を押して見ました。