「妻といふ光のありて月の道」の批評
ヒッチ俳句さん、こんにちは。
拙句「帰りみち」にコメント有難うございました!あれは、納骨の句のご返信コメントがいっぱいになったので、そろそろ新しいお題で投稿しないとと思って作りました。
しかし私は以前から、雪月花は得意じゃなく、なかなか出てこなくて。ある日の通勤帰りも考えていました。すると目の前に月が!「あっ、月だ!何か読まなきゃ!」と思ったら、それはなんと、目の前のマンションの窓の灯りでした。正確に五階かどうかわかりませんが、そんな高層でもない。そこで五階くらいにしておきました。
それで投稿しようとしたものの、あれ?この月は季語になる?ダメかな?ダメだなと。
でも他に浮かばないので、皆さんのご意見をお聞きするということでエイヤーで出してしまいました。
さて御句拝読しました。まあうらやましい句です。そのまんまというのがいいですね。
ちょっとだけ、最初に悩んだことをお伝えします。月は夜の道を明るく照らしますよね。
そこに妻の光を持ってきたら、月の光が霞んでしまうのではないか。すなわち季語が立たなくなるのではないか?と危惧しました。
お月見の時は部屋の電気を消しますよね、あんな感じで。
しかしそのうち、あ、これは違うなと。「光のありて」ですものね。
いくら月の道が風流と言っても、実際は月明かりだけで歩くことは難しい。江戸時代ならともかく現代は特に。
そんな時に、人生の伴侶としての妻がそばにいてくれるからこそ月明かりの道でも歩いていける、という句意かと思うようになりました。
妻の光は行き先を示す星の光であり、迷わずに道筋を照らす街路灯であり、足元を確かにするランプの役目さえしてくれますね。
このままいただきます!
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そのまんまですが、
よろしくお願いいたします。