「虫の音や小窓を開けて耳澄ます」の批評
回答者 みつかづ
こんにちは。貴句、拝読しました。
以下長文ですがご承知おきください。
皆さんから既に例句が示されておりますので、貴句を元にして、
私は「推敲のし方」を書かせていただきます。
まず、季語「虫の音」。
日本人だからこそ、歳時記にこの季語があります。夏の「蝉時雨」等と同じです。
中国、ポリネシア等を除く外国、特に西欧であれば、虫の鳴き声は雑音扱いです。
日本人は左脳で処理して、言語として虫の声を認識します。「秋だなあ」等と。
西洋人は右脳で(音楽的に)処理して、雑音と認識します。「耳障りだな」等と。
耳には届いている筈なのに本人には聞こえていない等という例もありました。
日本人だろうと外国人だろうと聞こえ方や感じ方は個人によりますので、
一概には言えませんが、ある程度の傾向はあるという事です。
また、虫の声は人間の五官のうちどこから入ってくるかといえば、耳ですよね。
「手で聞く」、「腹で聞く」等とは言わない訳で。
という事は、「虫の音」とあれば「耳澄ます」と書く必要が無いのです。
澄ます(注意する)程でないと聞こえないなら、季語になっていない筈ですので。
「耳を澄まさないと秋の虫達の鳴き声が聞こえなくなる程、
病が悪化した(または年老いた)自分である事よ」との嘆きの句、
もしくは「物理的に遠いので、耳を澄まさないと虫達の声が聞き取りにくい」と
いう内容の句ならばそれもありますが、そうでないなら
「虫の音」とあれば「耳澄ます」は不要です。
そして、「虫時雨」という三秋の季語もあります。
「秋の虫の音が、作者にとってどの様に聞こえたのか?」によって
適切な季語が変わってきます。
「音量は大きかったのか? 虫の種類は多かったのか? 少なかったのか?
どの虫の鳴き声に作者は惹かれたのか?」等々。
次に、「小窓を開けて」。
実際にお開けなのでしょうけど、開けなくても聞こえていた場合は
そもそも書く必要ありませんし、「開けた」と書かなくても読者に
「作者は開けたんだろうな」と思わせる事はできます。
例えば、「雨戸の向こう」と書いてあれば、
「開けないと虫の声は聞こえにくいので、作者は雨戸を開けたのかな」と
読者は読み解きます。
俳句は「17音しか無く季語を入れて句の主役にする詩」というきびしい制約上、
省ける表現は極力省き、景の描写に徹するしかないのです。
また、表現できる時間軸の幅はとても狭く、場面は一瞬しか切り取りにくいのです。
今は来られていませんが、こま爺さんが私に大切な事を教えてくださいました。
「季語+主題+副題=1句」
最後に、博充さんの今の段階では季重なりを気にする等の前、
「17音に収められる言葉の質量を基本的に理解する」段階ではないかと
私は判断しております。
作句は大切ですが、俳句の鑑賞や読み解きも同じ位大切、という事です。
江戸時代の俳句を沢山鑑賞なさると、「この詠み手はここに感動したのだな」と
勉強になるのではないか、表現の過不足について参考になるのではないかと
私は考えております。
以上です。ご覧いただきありがとうございました。
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窓を開けるといろいろな虫の音が聞こえてきます。