「少女手に左ハンカチ右スマホ」の批評
回答者 みつかづ
たびたび失礼いたします。
以下、長文ご承知おきください。
拙句「右日傘左ハンカチ胸スマホ」へのコメントありがとうございます。
https://weblike-tennsaku.ssl-lolipop.jp/haiku/corrections/view/26910
①「私は独特の感性なのか?」について
決してそうではありません。寧ろ古風です。
江戸時代の俳人、山口素堂の句「目には青葉山ほととぎす初鰹」。
三段切れ、季語3つの季重なりですが、名句と言われておりますよね。
では、理論面(文法、技法など)から鑑賞するかと申しますと、
決してそうではありません(ここはヒッチ俳句さんも誤解されております。
理屈から入って作句する人なんて誰も居ません)
「夏の訪れを体中で喜んでいるステキな句だな」と、感情面からまずは入り、
作りがどの様になっているかを調べると「上五字余り、季重なり、三段切れ」に
なっているだけなのです。
私も同じで、「伝えたい感動を詠みたい」だけなのです。
俳句は作句と鑑賞において、「感性と理論の両輪のバランスが大切」であり、
どちらか一方だけでは上手くいかないという事です。
②「季重なり、三段切れ、歳時記を疑う等々」について
これも江戸時代の俳人達と考え方は同じです。
特に与謝蕪村は、季重なりを気にしている様子は見られません。
「詠みたい様に詠んでいる」様に見えます。
そして、明治時代に正岡子規が登場します。
彼は「歳時記にとらわれるな(歳時記もあくまで参考程度)」と言っています。
自分の感性や観察を大切にすることを主張していました。私もそれと同じです。
③「尾崎放哉、山頭火のように新し俳句の句会でも起こされては」について
尾崎放哉や種田山頭火は、「無季自由律俳句」の先駆けですよね。
では、私がこの2人の句を好きかといえば、
全く興味はありません。面白いと思った事もありません。
私は「有季定型(季語を含んだ17音。時に字余り)という制約の中で
成立させるから俳句は面白い、楽しい」と思っており、
それを逸脱する事に一切の興味はありません。
私は以上より、「有季定型に従ってさえいれば、過剰に縛る必要は無い」との
考え方でして、皆さんが過剰に縛られている様に見えているだけなのです。
「江戸時代の俳人達の様に、詠みたい景を詠めば良い」。それだけです。
次に、『俳句添削道場』において、原作者のフォームにおいての改作を
よしとしない私の考え方は、「原作者の個性や持ち味を奪うから」なのです。
改作は、「従来のものを部分的、または大幅に変える。変更して作り変える」事で
あり、原作者を自分の色に染めてしまうのです。
そうすると、せっかくの原作者の持ち味や個性が奪われてしまいます。
また、『道場』。心身を鍛える場を意味する単語です。
「他者に直してもらうのではなく、他者のアドバイスや発想を元に自句を
改作したり、自分で作句や俳句鑑賞の腕を磨いていったりする場」が
『俳句添削道場』の語の意味なのです。
ですので、私が改作した時には出典を明示し、理由も書いた上で自分の所に
書きましたでしょ? 他者の句に書く時には添削の範疇に収めます。
でないと、原作者に失礼になりますので。
一方、添削は心得も含めて以下です。
(言葉が足りていなければ「添」え、言葉が多過ぎるなら「削」る。
その際は、常に作者に心を「添」え、改めたいとの我欲は「削」る)
上達は作者に任せて、原句と原作者の思いは尊重しますよ、
「それありきですよ」という事ですよね。
そして句意を正確に詠み取る為に、大まかな感情から入った後に
理論的に読み解いて、そしてまた背景の感情を考えるという段階を踏んでいます、
私は。そうしないと、句意を勝手に変えてしまいますからね。
上記の事より、私の感性は独特なものではなく寧ろ古風であり、
それを「現代」という、移り変わる時代背景にそぐう様に詠んでいるだけなのです。
今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。
点数: 0
添削のお礼として、みつかづさんの俳句の感想を書いてください >>
スマホは離さない