「AIはいさ気も知らず躑躅の香」の批評
こんばんは。
落花の句にコメントありがとうございます。身にあまる評価はいささか気恥ずかしい気もします。
落花にいったい何をあたらしく感ずるか。
いわゆる無常観が少しだけ分かる気がするということです。
私の朽ちて行くのと、花が散り朽ちて行くのと生物学的にいささかの違いもない。
実は次のような俳句にいたく心を惹かれている次第です。
”じゃんけんで負けて蛍に生れたの 池田純子
さて、みつかづさんの俳句への取り組み、すごく本気度を感じます。甘いも酸いも色々経験されたんでしようか、人間関係の有象無象より俳句の純粋さに心を傾けられるということでしょうか。
感情という厄介者からいかに身をかわすか、これも俳句作りの姿勢に無関係ではなさそうですね。
うまく表現できませんが、俳句と無常、その辺が一つのキーワードのような気がします。
御句ですが、上五中七はAIを皮肉った観念句のように感じます。観念は捨てて事実を淡々と詠むのも一つの方法かもしれません。それと、主役はあくまで躑躅というのを明確に、句意はAIでさえ強く感じる躑躅の香りであることよと、
”AIの詠う躑躅の香りかな
今後ともよろしくお願いします。
添削のお礼として、こま爺さんの俳句の感想を書いてください >>
句意:(技術が進歩したとはいえ)さあ、AI(人工知能)には人間の気持ちがどれ程まで理解できるのか私には分からないけど、(人間を含めて動物はこの遊歩道に咲いている)躑躅(つつじ)の香りに(何等かの気持ちを抱き)、私は春の深まりを感じている。
用いられている技法:
本歌取り(紀貫之作:人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける)
出典:小倉百人一首(35)
※ AIをばかにする気は、私には毛頭ございません。