「フラフープにも芋煮会にも飽きた」の批評
回答者 なお
長谷機械児さん、こんにちは。
御句拝読しました。
フラフープとはまた、懐かしいものが登場しましたね。当時、あまりの流行に、「やり過ぎると腸捻転になる」などと揶揄中傷が飛び交ったとか。買えない人や上手くできない人のひがみでしょうね(笑)。
さて掲句ですが、今一つよくわかりませんでした。季語に「飽きた」と言ってしまうのがどうなのか、その辺がよくわかりません。ご自身でも、ご経験がないからか、あまり楽しそうではないですが、なんだか季語が気の毒な気がします。
それは、掲句が子どもの視点とはわからないからということもありました。
確かに芋煮はそれほど特別な派手な料理ではありませんが、秋晴れの空の下、大鍋で煮込まれた具材を大勢で分け合って食べることに楽しさがあると思うのです。
そしてそうした点が季語にも含まれていると思っています。
ちょうどご自身でも、花見を引き合いに出していらっしゃいますが、「弁当も桜も飽きた花見かな」みたいな句があったとしたら、お弁当を作った方も、咲いた桜も可哀想な気がします。
それよりも、せめて
・フラフープ終えて腹ぺこ芋煮会
とかはどうかと思った次第です。
ちゃあきさんのフリスビーの句などは、子どもも楽しく遊び、大人も、鍋に飛び込んだことを「いいよいいよ、それも煮ちゃえ(笑)!」とか言って、笑って許している光景が浮かんできてとてもいい提案句だと思いました。
よろしくお願いします。
点数: 2
添削のお礼として、なおさんの俳句の感想を書いてください >>
記念日俳句、10/18は「フラフープ記念日」。と、お題「芋煮会」。
お題の俳句をまだ投じていなかった。某俳句道場の選外句は既に投句済で、自選没句というものも無し。さて…。
そうしたところにこの記念日。外遊びの道具「フラフープ」は芋煮会の会場(だいたい広い河川敷だろうと思っている)に持ち込めるのではないか、と作句。
大人が会の準備をしている頃、子ども達は外遊びに全力投球。これに飽きた頃に会が始まって、ものを食うことに全力投球。…とはいえ、主役が里芋の、普段の夕食の延長のような料理は子どもにとって特別に御馳走ということもなく、腹が満たされればそれだけのこと。酒が入って楽しそうな大人を横目に手持ち無沙汰。…といったイメージ。
まあ、芋煮会経験がないので、このイメージの大半は、花見の記憶の読替えなのだけど(花見の弁当も、外見は華やかでも、中の料理は普段の食事とそう変わらず…)。