「保津川の応挙絶筆魅せられり」の批評
回答者 イサク
こんばんは。
下五「魅せられり」というのは、「魅せられました」という自分の感想を報告するような文章になっています。前の句の「面白き」もそうでした。
そういう言葉を使わずに魅力を表現したいです。
「丸山応挙の保津川図屏風」というのが伝わるなら、魅力をそれ以上に伝える必要が少ないような・・・?
「丸山応挙の保津川図屏風」というのが伝わらないのであれば、そもそも「屏風と言わずに屏風と伝える」という作戦も破綻しているので・・・
季語の件、それぞれの季語に成り立ちがあるので、言い替えはあまり勧められていません。むしろ「初心者は季語を正確に使いなさい」というのが主流のようです。
以前にどなたかが「傍題より主季語を使いなさい」という言葉を使っていました。それも同じ発想かと思います。
俳句は連想ゲーム的な一面もなくはないですが、文字の並びから風景を想像させるのが大事で、季語は【風景を想像させるための重要な道具】と理解しています。逆に、風景を作ることを達成できていれば無季語俳句も認められているわけで・・・
なので【「季語」そのものズバリではなくても、間接的にその語を言い表しているのならOKなのでしょうか】という質問に関しては「OKかどうか、という問題ではないのでは」というのが私の答えですね・・・
初心者の私としては「せっかく使う季語ならば、正しく使った方が良い俳句になりやすい」という感覚はあります。
点数: 2
添削のお礼として、イサクさんの俳句の感想を書いてください >>
よろしくお願いいたします。
円山応挙絶筆の『保津川図屏風」に
本当しばし時が止まったように魅いられました。
豪々と音たてているかのような瀑、流れる水の糸ひくさま
かと思えば左隻の川底には鮎が泳いでいたりと
迫力の一双でした。
瀑布や景色、鮎を詠んでみようと試みましたが、まとめきれず。
最終的にシンプルなところへ着地したように自分としては思っております。
どうだろうか?と思う気持ちもありまして
一点は、よく見かけるように思うのですが
「季語」そのものズバリではなくても、間接的にその語を言い表しているのならOKなのでしょうか(自句では八曲一回=屏風)
もう一点は
これでは想像を皆さまに投げすぎでしょうか?
想像を喚起できるのだろうかと。。。
また、絵画や古美術好き前提になってしまう???ので、問題ありなのでしょうか。
ぜひお教えいただければ幸いです。